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社長&顧問ブログ

2020.11.29

特攻の母

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きと行きたいのですが

 

終戦の話を書いているときに

 

早朝のNHKで日本の話芸と言う番組が放送されていたのです。

 

普段は 落語が中心なのですが たまたま見た時は落語家が

特攻の母と言う演目で 話をしていたのです。

 

その内容が 終戦間際の鹿児島の話でした

鹿児島でも 当時特攻の基地となった 知覧での出来事の話だったのです。

その町で当時 鳥濱トメさんと言う方が

陸軍指定の食堂をしていたのです。

指定食堂を始めた頃は

実家から遠く離れた知覧の地で飛行訓練をするためにまだ15歳ほどの少年が多数やってきて、

トメのことを「お母さん」と慕って食堂に通い猛訓練をして立派な飛行兵となりそれぞれの

部隊に巣立って行ったのです。

 

しかし 戦況が悪化しだした 昭和20年に

たくましく成長したかつての少年兵たちが、トメの食堂に会いに来るのです。

それは

20歳前後の青年となり、特攻隊員として知覧に戻ってきたからなのです。

そこには特攻隊員とのエピソードが多数ありました。

 

出撃していく特攻隊員一人一人にドラマがあったのです。

 

 

その一人上原少尉は、

トメに「日本は負けるよ。近いうちに」と言い、

特攻隊員の「一撃轟沈・皇国必勝・悠久の大儀」といった遺書を書くことを拒否して

日本が負けることを知りつつも 志願して

将来の日本の自由と平和を願って出撃したのです。

 

飛行学校で軍人精神の教官だった29歳の藤井中尉は

飛行機の操縦は出来なかったのですが、

教え子たちだけを行かせられないと、

血染めの志願書を軍に提出し、

二人乗りの飛行機の後部座席に乗って突入していきました。

夫の突別攻撃を知った妻は夫に未練を残させないよう、

子供たちと共に入水自殺していたのです。

 

特攻突撃の前日が20歳の誕生日だった宮川軍曹は

トメの料理で誕生日を祝い、翌日の出撃のためのはなむけとしたその夜、

空襲警報のために皆で入った防空壕で蛍を見つけます。

 

彼は、

「明日の夜の今頃に蛍になって戻るから、店の引き戸を開けておいて欲しい、

そして『同期の桜』を歌って欲しい」と言い残し

翌朝特攻機に乗って出撃したのです

 

翌日の夜。

 

わずかに空いた表戸の隙間から本当に一匹の蛍が現れます。

 

トメも、居合わせた兵士たちも号泣しながら

「同期の桜」を歌ったということです。

 

 

そして昭和20年八月十五日

日本は戦いに負け、戦争は終結します。

 

トメは 少年達のお母さんとして兵士を可愛がっていたのですが

本当のお母さんにはなれなかった

本当のお母さんだったら しがみ付いてでも 特攻機には乗せなかったと

悔やんで号泣したそうです。

 

戦後トメはこう皆に語っていました。

 

「笑って行った人など一人もいない。 愛する人と暮らしていたかった。

でも、もはや本土上陸目前だったから、愛する人を守るんだと、私にはっきり言ったよ」

 

そして、こうも書き残しています。

 

「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。

命よりも大切なものがある。それは徳を貫くこと」

 

この鳥濱トメさんは 後年

特攻の母と呼ばれているのです。

 

戦争の悲劇は決して忘れてはなりませんね

 

明日は 終戦のご聖断を受けた阿南陸軍大臣の話に

戻る予定です、、。

 

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