EXECUTIVE BLOG
2021.3.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 桜田門外の変の話が続いていました
今の暦で 3月24日の出来事ですが
百数十年前に 桜田門外でこのような恐ろしいテロと言えるような
事件が起きていたのです。
この事件をきっかけに 日本は明治維新に進む事になるのです。
さて 昨日からの続きですが
供侍の数が合わないのでは? と言う話でした。
水戸浪士から襲われた時に 勇敢に立ち向かった彦根藩士が多い中
その場を見捨てて逃げ出した連中がいるのです。
彦根藩邸に逃げ込んだ侍は 後に斬首となるのですが、
何もお咎めが無かった人がいたのです。
これは 何故か?? という事になります。
簡単に言いますと、今でいうとバイトを雇っていたからです。
江戸時代には 口入れや と呼ばれていたようですが
この桜田門外の変の時も 侍の格好をしたバイトが居たという事なのです
当然 彦根藩としては その口入れやに対して列から逃げたという事で
相応の処分を命じるのですが
そんな事を言われた 口入れやは それを飲む事などできませんね、
実際は侍でもないのに 命まで預けるなど出来るわけないと
そんな費用も頂いてませんし忠誠心などあるわけがありません、
今でいう人材派遣会社としては そこまで仕事としては請けられないという事になるのです。
江戸城登城の時に 体裁を整えるために人を雇っていたので 供の数と処分の数が
合わなかったと言うのが真相のようです。
これは
参勤交代の時の大名行列の時も同じことが言えていたのです。
大勢の武士たちが、整然と隊列を組んで厳かに行進すると我々は
思っていますね、
従者が「下に〜下に!」と掛け声を発すると、道行く庶民は路傍に土下座し、
一行が過ぎ去るまで頭を上げてはならない——。
参勤交代の大名行列の光景は、時代劇でこのように描かれています。
だが、これは正しくないそうです。
大名行列は街道を行く際、隊列を整えていなかったのです。
一糸乱れぬ行列で豪華さと華麗さを見せつけるのは、宿場町に入る直前だけで、
山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、
気ままに歩いていたそうです。
「宿場町の入り口に夕刻までに集合すること」
藩の重役からこのようなお達しが出ると、集合時間までは自由行動だったようです。
刻限になり藩士が揃うと、行列を整えて悠然と宿場町に入るのです。
多くの人の目に触れる場所でだけ大勢の武士たちが、
いかにも規則正しく振る舞っていたと言うのです。
そして大名行列は臨時で人を雇い、いかにも人数が多く見えるように水増ししていたのです。
サクラのアルバイトを雇っていたという事になります。
バイトたちは「通日雇」と呼ばれていて、通日雇は非侍身分の者であり、通称「六組飛脚問屋」というあっせん業者が派遣していたそうです。
今でいう人材派遣会社の元ですね。
江戸時代初期の参勤交代では各宿場町に人足がおり、
彼らを現地で雇い、次の宿場まで荷物を運ばせたのです。
さらに次の宿場でまた人足を雇い、また次の宿場までと臨時雇用をいわばリレー方式でつないでいたのです。
しかしリレー方式では各宿場ごとに人を雇うため、賃金だけで膨大なコストがかさむ。
そこで、国許から江戸まで一貫して随行できる人材を派遣する業者が誕生したのです。
それが「六組飛脚問屋」であり、派遣された者たちが「通日雇」だったのです。
江戸時代にすでに人材派遣会社があったという事を学校では習いませんが
今も昔も変わらない事があるのですね
では
明日は
水戸浪士が集合した 東京23区内で一番高い山の話にもどれるのか?
それは
明日に続く、、。