EXECUTIVE BLOG
2021.6.23
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
東京大空襲 福岡大空襲 沖縄に鉄の雨が降ったという話でした
昨日書いた 福岡大空襲の時を体験した方から聞いた話ですが
その方の知り合いも空襲警報が出た時に 頑丈な建物で安全と言われていた
十五銀行の地下防空壕へ逃げ込もうとしたそうなのですが
既にその地区の住人で一杯で その中に入れてもらえなかったそうです
それで 逃げ場を探して 今の福岡県庁がある所まで逃げて難を逃れたそうなのですが
もし その時に あと一人くらいなら入れますよと いう事で そこに避難していたら
命が無かったと話をしていたそうです。
又 避難するための道も 木材を敷いていた為に その木材が焼夷弾により燃えてしまって 逃げ道であるはずの道路が使えないという事で 逃げ遅れて亡くなってしまった方も
多かったと話をされていました。
このような空襲は 全国各地で起きるのですが
この年の三月の 東京大空襲の後の政府の発表は 今振り返ると そんな馬鹿な
と思わざるを得ないような内容だったと言うのです。
3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下されました これが「東京大空襲」です。
現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となってしまい、たった一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にも登ったのでした。
この大惨事を受けて、
日本政府もそれまで 通告していた「空襲を受けても逃げずに火を消せ」の方針を
変更するかと思いきや、そうならなかったのでした。
空襲の直後、当時の都知事は、都民にむけた告諭で次のように呼びかけたのです。
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。
と言う内容です。
焼夷弾が降り注ぎ燃え盛る街をみて「恐れるな」など無理な話だと思います。
しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、
「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったそうです。
家族と自宅を失って同様する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と
政府は呼びかけていました。
そしてこれ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は全く示されなかったのです。
東京大空襲から2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けました。
いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害が生じたのです。
3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として
「初期防火の徹底」という勇ましい呼びかけを掲載し、同日の朝日新聞は、
「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」
と一面に掲載したのです。
更には 米軍が空襲予告ビラを事前にばら撒いたそうなのですが
これを 拾ったものはすぐに捨てるようにとの命令も出ていたそうです
今の常識で考えるのであれば 先ず避難しなさい の命令が先と思うのですが
それを知らずに逃げ遅れ命を亡くした人も多数居たと思います。
それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくのですが、
政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかったそうです。
広島・長崎の惨事の後にも、
「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していたと言うのですから
驚きですね。
このような 国民に本当の事を伝えない方針は終戦まで変わらなく 国土が焦土と化しているにも関わらず 戦争には勝っているとの報道が最後まで続いていたのです。
情報は正しく伝わらなければならないのですが
ここまで 戦争の話が続きましたのは、
私が ITビジネスを開始するにあたり ジャーナリストと出会い そこで
偏向無き報道はどうあるべきかを考える事になったのです。
現代でも偏向報道はあるのか? 正しく伝えるためにはどうすれば良いかの
解決策を 私が その時 そのジャーナリストたちに示したのです
その結果、、、
それは
明日に続く、、、。