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社長&顧問ブログ

2021.12.21

鮮魚特急貨物列車「とびうお」??

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは

真珠湾攻から開戦の話に なり その後 赤穂浪士の話に飛んで

浪士が切腹した現場を わざわざ見に行った結果 私が高熱を出したと

言う話でした。

 

東京は 色んな史跡があるので それらを見に行く楽しみがあり

普段 興味を持って街中を歩いていると 色々なモノを発見すると言う話でした。

 

そこで

先日 銀座をぶらぶらしていると

何と 街中に 踏切があったので驚いたのでした

詳しく申しますと 踏切と言っても 線路があるわけでは無く 踏切の遮断機が残っていたのです

 

何故 こんな所に 踏切が有ったのかに興味をもってしまったのです。

多分 そこは 何度も通っていた場所なのですが 興味を持つ目で周囲を

見ていないと 何気なく見過ごしてしまうのだな と思うのでした。

 

今日は 何故 そんな場所に踏切があるのかの話に進みます

 

東京・銀座の繁華街から東京高速道路の高架線に沿って浜離宮の方へ歩いてくると、

銀座郵便局横の歩道に、古い踏切警報機がぽつんと立っているのです。

そこに有る立て札には、

「銀座に残された唯一の踏切信号機」と書かれていました。

しかし、周囲に線路はありません。

 

この踏切の名前は「浜離宮前踏切」だそうです。

実は、ここにはかつて東京の「食」を支えた極めて重要な鉄道が通っていたのでした。

 

それは、通称・東京市場線。1935(昭和10)年2月、築地市場の開場と同時に開業した長さ1.1kmの貨物線だったのです。

 

旧浜離宮前踏切の西側には、

日本テレビや電通本社などが並ぶ「汐留シオサイト」があります。

ここは、1986(昭和61)年まで国鉄汐留貨物駅があった場所なんですよ。

東京市場線は、広大な貨物駅の片隅から線路が延び、浜離宮前踏切と朝日浜離宮ホールの横を通って、築地市場につながっていたのでした。

それが現在、線路の跡は幅8mほどの道路に変わっているのです。

 

築地市場は、元々鉄道による入荷を前提とした構造だったのです。

貨物列車から降ろされた水産物と青果物は、ホームに隣接した仲卸売場で競りにかけられ、買い手がつくと中央の買荷保管所からトラックで小売店へ出荷されました。

入荷から出荷まで最短距離で行える、よく考えられた構造だったのですね。

 

昭和30年代にまず青果物の入荷がトラック輸送に変わり、水産物も次第に鉄道からトラックへ移行していきます。

東京市場線に入線する貨車は、1960年には1日150両を数えていましたが、

1965年には約100両、1970年には70両程度と減少したそうです。

 

そこで、国鉄が投入したのが、鮮魚特急貨物列車です。

トラック輸送との差別化を図るべく、国鉄はなんと最高100km/hでの走行が可能な24トン積みの高速冷蔵貨車、レサ10000形を開発したのでした。

1966年10月には、鮮魚特急貨物列車のひとつ「とびうお」の運行が始まったそうです。

 

長崎駅を22時に発車した「とびうお」は、夜のうちに唐津、博多などで鮮魚を積み込み、翌朝7時過ぎに最大20両編成で下関を発車して、山陽本線・東海道本線をブルートレイン並みのスピードで駆け抜け、3日目の深夜1時に東京市場駅に滑り込みました。

長崎~東京市場間の所要時間は、51時間から27時間とほぼ半分に短縮できたのです。

下関~東京市場間はトラックの24時間に対し18時間で結び、

水揚げの翌々日には市場に出せるようになったのです。

 

この話には まだまだ続きがありますが

一つの踏切から 豊洲市場の物流の話まで見えて来るのです

 

興味を持って歩くのも一興かと思います

 

さて

 

明日は この市場の続きになるのか???

 

 

それとも

あの話に????????

 

それは

 

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