EXECUTIVE BLOG
2022.4.2
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 新国立競技場の話で 当初聖火台が無いという事で
問題になっていたと言う話でした。
当初聖火台を付けろとの指示が無かったのでと言うのが理由だったそうですが
この話を聞いた時には 呆れてしまいました。
他にも似たような話がいくつかあってますが
最近では コロナ対策で折角のマスクが大量に廃棄されてしまうとの事でしたが
これにも呆れてしまいました。
人のお金だと思うとなんとも思わなくなってしまうのでしょうね
オリンピックの事務局の事務所の家賃も異常に高かったですし
人件費にも問題があったように耳にしています。
最近のオリンピックは派手になり過ぎて 本来のスポーツマンファーストの意識が
薄れているような気がします
そうは言っても いざ オリンピックが始まりますと
様々なドラマが展開されいます。
過去にも名場面が 沢山ありましたが、
先日私が 国立競技場横の オリンピック博物館で目にしたある記事を
見て感動を覚えた事がありました。
それは 1932年に行われた ロスアンゼルスオリンピックの時の話です。
この時の金メダリストとして有名なのが 馬術競技の 西竹一ですね
後にバロン西と呼ばれた方ですが
この後 太平洋戦争時に硫黄島に派遣されてた時に 米軍が この島にバロン西が
居る事知り なんとか 彼を助けたいとの思いから 投降を呼びかけるのですが
西中佐は最後まで戦い 最後は戦死することになるのです。
この 西中佐の オリンピックでの活躍ぶりや硫黄島での勇猛果敢な戦いは
その後 本や映画にもなっていますので 多くの方がご存知だと思いますが、
もう一人 このロスアンゼルスオリンピックの馬術で活躍した選手が居たのです、
それが
馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手です。
愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに出場した種目は総合馬術競技で
決勝戦は、山野を22マイル(32.29km)走るものでした。
途中のコースには50個の障害が設置され、
これを飛越しながら全力疾走するという非常にハードなもので、
とりわけ馬の持久力が勝敗を左右する競技でした。
全コースのほとんどを順調に走り終え、
あと1障害と1.94㌔㍍の距離を残すだけの所まで来ていた、
全コースの99%を走行したこの時点で、
ほぼ金メダルがが予想されたまさにそのときアクシデントが起きたのでした。
この時、観客は眼前の信じられない光景に息を呑みました。
それは城戸選手が突然ゴール寸前の所で「久軍号」から飛び下りたのです。
そして、彼は愛馬と一緒に歩きながらたてがみをたたいて労をたたえていました。
栄光を目前にしながらの棄権だったのです。
「久軍号」は、この時全身から汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていました。
すでに全力を出し切っていたものの、
なおもかすかに残る力で次のジャンプへ向けての前進気勢を見せていました。
ムチを当てれば、最後の力を振り絞って障害に挑んだことでしょう。
ですが、
このまま障害を飛び越えさせれば死んでしまうという城戸選手の咄嗟の判断で
下馬したのです。
なんとその時、
「久軍号」は、主人の心を知ってか、城戸選手の肩に鼻を埋めて、
まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているようであったと言われています。
静かに退場する人馬の姿を見た数名の審判員は、思わずもらい泣きしたそうです。
当時のロサンゼルスで発行された邦字新聞の見出しには、
「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」
と書かれています。
この城戸少佐は惜しくも金メダルを獲る事は出来ませんでしたが
彼こそ本物の英雄ではないかと称えたくなる物語でした。
この愛馬精神に徹した城戸選手の行為を讃えて、
2年後にアメリカ人道協会は2枚の記念碑を銅版で鋳造しました。
1枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、
もう1枚はリバーサイド・ミッションインという教会が保管しました。
この銅版には何と言う言葉が刻まれているのか?????
それは、、、
明日に続く、、、、、。