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社長&顧問ブログ

2022.4.9

岸壁の母

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 旧ソ連のスターリンが ウクライナで略奪を行っていたと言う話でした。

当時も 多くの人をシベリアに連行して強制労働をさせていたようなのですが

今回のロシアも ウクライナの多くの人をどこかに連れ去ったと言われています。

もしかしたら どこかで強制労働をさせているのでは と思ってしまいます。

 

今では 知らない方が増えていますが

満州方面で戦っていた 日本軍やその関係者が シベリヤに強制連行されていたのです。

 

この時ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上るそうで

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、

約5万8千人が死亡したと言うのです。

 

終戦から数年経ってから やっと順次帰国がはじまるのですが

、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、

収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害される」

と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたというのです。

 

本来であれば 終戦になったわけですから 兵士たちは日本へ帰れるはずでしたが

何故シベリヤに60万人近い日本人が連行されたのか?? には

ある密約があったのではと言われています。

昭和20年8月16日にスターリンは、

ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領すると言うだけではなく、

日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、

北海道の分割占領を申し入れていたと言うのです。

 

理由は、

「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」

というものであったそうです。

しかし、このソ連の申し出に対して、

さすがにトルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送ったと言われています。

 

しかし このために

「北海道の代償として捕虜をシベリアに送って良い」

という密約があったのではと言う説があるのです。

 

勝者はなんでもして良いと言う考えだったのではないでしょうか?

 

この考えが 今のロシアにも残っているという事なのでしょう、、、。

 

昔 「岸壁の母 」と言う歌があったのをご存知でしょうか?

最近の人は聞いた事もないかと思いますが、

 

シベリアから解放されて日本に帰国する人たちは 京都にある舞鶴港へ船で返されえて来ていました。

 

この歌は 実話をもとに書かれた歌だったのです

 

ソ連からの引揚船が着くたびにある婦人がいつも自分の息子の帰りを待って岸壁に迎えに来ていたのです。

何度来ても その船には息子が乗っていませんでした。

雨の日も風の日も息子の帰りを待ちわびて桟橋の脇に立っていたのです、

これがいつしか人々の目に止まり、

マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられたのです。

 

そして ある時 これが 岸壁の母として 歌となって広く多くの人の耳に入ったのでした。

https://youtu.be/Fry0OSsKqpA

 

 

戦争は本当に悲劇をもたらします。

 

今回の戦争も一日も早く解決させたいと思うのです。

 

この母は 結局息子と会う事が出来たのか??????

 

それは????????

 

明日に続く、、、。

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https://takamitsu.com/