EXECUTIVE BLOG
2022.4.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 太平洋戦争終戦後 満州に居た多くの日本人が
ソ連の極寒の地のシベリアに連行され そこで 強制労働をさせられていた話で
その後10年近くかかって やっと日本への帰国が許されるようになって行く話でした。
多くの日本人を乗せた船は京都の舞鶴港に戻って来ていたのです。
毎回 我が夫 我が息子がその中に居るのではと多くの家族が迎えに来ていました。
何日も 何か月も 何年も辛抱強く 今日の船に乗って帰って来るのでは
明日の船に乗って元気な姿で帰って来るのでは と
帰ることを信じて家族は待っていたのです。
その子を待つ母の事が 岸壁の母 と言う歌になったのでした。
最初の一節の 「 母は来ました、今日も来た、、、、」 で 始まる歌を聞いていると
胸を打たれる思いです。
今 ウクライナで戦争が起きていて ロシヤ軍の蛮行が報道されています。
まさに ロシア軍が行っていることは 戦争犯罪だと国際世論から非難されていますが、
侵略している兵士一人一人にも 母親がいるのです。
その母親たちも 我が子が無事で帰って来ることを 毎日祈って待っているのですから
本当に 戦争は悲劇を産み出すものだと思うのです。
で 今回の 岸壁の母は 最後は息子と会えたのでしょうか???
このお母さんは 戦後36年経った1981年まで生きておられましたが
死ぬ寸前まで 「息子に会いたい」 と言いながら 息を引き取ったと言われています。
では この息子さんは どうなっていたのか???
実は中国で生きていたという事が 戦後の国の調査団によって判明したそうです。
では 何故彼は帰国しなかったのかという事になりますが
彼は士官学校出身で 最後まで 満州にいる日本人を守るために戦っていました
そして わけあったのか 中国にとどまって 残留日本人の為に働いていたのです。
彼らを見捨てて自分だけ 帰国するわけにはいかないと考えたのでしょう。
そのうち 日本からの情報も耳に入ります そこで 知ることになるのが
自分の母親が何年も 自分の帰りを待っているという事も知るのです。
何年も待ち続けた母親には 国からは戦死通知書が渡されていました。
しかし 母親はそれを信じず ひたすら息子の帰りを待っていることも
知ることになるのです。
死亡通知書も出ている事 母親が待ち続けている事で有名になっていることも知っていました。
しかし それでも帰ることをしなかったのです。
我々の常識だと 帰れるとき帰れば良かったのにとか
長年母親を心配させ続けて 親不孝な人だと思うかもしれませんが
彼は 決して無責任で親不孝な人物ではなく
誇りある日本の軍人として最後の最後まで残された日本人の為に戦い続けたのです。
このような悲惨な事が二度と起こらないように
又 ウクライナでの戦争が早く終わることを願うばかりです。