EXECUTIVE BLOG
2022.5.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 家光の腹違いの弟の保科正之の話になりました。
家光は 実弟の忠長を自刃にまで追い込みましたが
腹違いの弟の保科正之に対しては 生涯信頼していたそうです。
この 保科正之の家訓が幕末の会津藩の悲劇を呼ぶことになるのですが
その話は 後でするとして
先ず この保科正之とはどういった人物だったのか??についてです。
保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれますが、
正室・お江の方の嫉妬を恐れ、隠されて育てられました。
秀忠は生涯、正之を自分の子と認めることはなかったのです。
しかし、三代将軍・家光は自分の実弟であることを認め、
正之の清廉潔白な性格を非常に気に入り、幕政において重用したのです。
自分が亡くなるときも、枕元に正之を呼んで
「徳川宗家を頼んだぞ」と遺言を残しています。
そしいて四代将軍・家綱の後見人となった正之は政治に才覚を表して行くのです。
戦国の世から抜けきれず、武断派が多かった中で、正之は文武派の政治を行ったのです。
戦などにお金をかける政策ではなく、民のための政策を行ったのです。
江戸が大火事に見舞われ 江戸城の天守閣も燃えおちた時
幕臣からは 民から金を集めて天守閣の再建をしようとの声が上がりましたが
逆に そんな金があるなら民の為に使わなればならないと断言しています。
この「平和のための政治」は260年以上続く江戸時代の礎となりました。
保科正之がいたからこそ、江戸時代は長く続いたと言っても過言ではないのです。
又保科正之が日本初の年金制度を作った人物だったのですが
残念なことにこの事はあまり知られていません。
会津藩23万石の藩主となった時正之は、
藩の改革に乗り出しました。
その時、豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けたのです
これは天候不良などによる不作の時や飢饉に備えての備蓄だったのでした。
この「社倉」のおかげで、会津では飢饉になっても餓死者が一切出なかったと言われています。
また、老人には、食べるのに困らないだけの米を支給しました。
これが日本初の年金制度だったと言われています。
働いてきちんと税金を納めれば年金がもらえると言うのは 現代では当たり前の話ですが
今から400年以上も前の江戸時代にこう言った発想をした保科正之は賢い殿様だったと
言えると思います。
又残っている逸話としては
将軍の弟であるにも関わらず 常に末席に座っていたと言われています。
何処までも 謙虚で 将軍の弟としてふるまうのではなく
あくまでも 一家臣の立場を貫いたのです。
他にも 彼の逸話は沢山ありますが これもキリがありませんので
このように 将軍家に対して忠義を尽くし抜いた正之の家訓の中身とは
何だったのか??????
それは???
明日に続く、、、、。