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社長&顧問ブログ

2022.5.21

慶喜の墓

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは 東京の自宅の近所にある 徳川最後の将軍の

徳川慶喜の墓が 谷中霊園にある事を知り

何故 彼の墓が 菩提寺の 芝増上寺ではないのか?

又 将軍全てが 増上寺ではなく 上野寛永寺にお墓があるのか??

そもそも 家康は何故神となって 日光東照宮に祀られたのか???

と次々に興味が湧いてきたと言う話でした。

 

そして いよいよ今日は

慶喜の墓についての話になります。

 

この慶喜の墓ですが

いつもの見慣れた徳川家の墓ではないのです。それは亀の甲羅みたいな感じなのです。

 

形は他とは違いますが よく調べてみますと 谷中霊園も 上野寛永寺の一部だったのです

つまり他の将軍と同じ 寛永寺には眠っている事にはなりますね、

 

だとしても、なぜ寛永寺の別の場所なのか????

綱吉や吉宗の眠っている霊廟の中に入れてもらえなかったのか????

ですが

その答えは

宗教が違うからなんです。

これは、なぜお墓の形が違うのかの答えにもなります。

それは

慶喜家の強い希望で、仏教ではない別の宗教を選んだからなのです。

それが 神道だったという事なのです

慶喜は「尊王」の総本山といえる、水戸藩で育つていますね。

しかし 明治維新が起きると鳥羽伏見の戦いで、

薩長側から錦の御旗が示されてしまいます。

つまり天皇側である朝廷は薩長についてしまったのです。

従って慶喜は朝廷の敵、すなわち「朝敵」になってしまったのです。

 

元々、水戸家は仏教ではなく神道だったようで、

だから大人しく大政奉還もしたと言われています。

しかし あくまでも徳川将軍家は 朝敵には変わりありませんでした。

明治も35年も経つ頃二人の人が動いてくれていたのです。

その一人は勝海舟で 海舟亡き後力になってくれるのが一橋家ゆかりの渋沢栄一だったのです。

この渋沢栄一が、時の首相桂太郎に直談判して 朝敵の汚名を無くす算段をしたのです。

その結果考えだされたのが慶喜は徳川宗家ではなく

徳川慶喜家だと言う事にしてしまったようです。

そして徳川慶喜は最高位の公爵を与えられたのでした。

この事でようやく徳川慶喜は、自分のための墓の準備が始められることになります。

まずは日光に行き、家康の墓にお参り。

そして京都に行き、江戸時代最後の天皇、孝明天皇の墓参り。

そして、その時に孝明天皇の墓と同じ形を小さくすると決めたのでした。

 

最後に寛永寺へ自分のお墓の相談に行くのですが 最後の将軍だったにも

関わらず徳川宗家ではない事になったと話しました。

それで 寛永寺側は それでは谷中霊園内に、一橋家の墓地があるので、

その隣でいかがでしょうかと提案し、

慶喜もその提案に承諾したのです

 

ただ、その時点では、

寺院の敷地内に仏教ではない神道タイプのお墓を作ると言ってませんでした。

 

慶喜家が墓を作り始めてみると 神道系のお墓だったのです

これには 寛永寺も驚き 中止を求めるのですが

そこから慶喜も説得を初め、最後には寛永寺も折れる事になったのです。

この時の墓の敷地内のレイアウトも全部、慶喜が決めたのです。

自分の左横に、正室

右横に、続いていくであろう徳川慶喜家の祖先たちの墓置くことにしたのです。

 

そういう事で 慶喜のお墓の形が 亀の甲羅のような形になっていて寛永寺の横の

谷中霊園にあるわけが分かったのですが

 

この墓 更によく見てみますと

慶喜の立派な墓の後ろに 何やら奇妙なモノが建っているのです

 

これは

何だと思い よく見てみますと

 

えーーーっ

そんな事して良いの??????????

今では 考えられないモノが!!!!!

 

一体それは??????????

 

何なのか??????????

 

 

またまた 明日に

続く、、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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