EXECUTIVE BLOG
2022.5.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
散歩の途中で見かけた 谷中霊園にある
徳川慶喜のお墓から 色々な疑問や興味が湧いて調べて行くうちに
徳川家康は そもそも浄土宗であったにも関わらず 最後は自ら
神となった 日光東照宮に祀られる事になったとか 歴史を紐解くと
いろいろ面白い事が分かってきます。
この神になる事で 徳川家を260年も続けることが出来たのですが、、
その思いは 最後は敗れる事になってしまうのですが
この話は 又後日で 260年どころか 永遠に徳川家は続くものと思われていましたが
15代将軍 慶喜で幕を閉じる事になるのです。
で 昨日の続きとなるのですが
この慶喜の墓を眺めていますと 他にも 興味あるモノを見つけたのです
それは 慶喜のお墓の後ろに 隠れるようにある 小さなお墓があったのです。
お墓の後ろにお墓とは あまり見た事がないと思いますが
この墓 一体誰なのか??にも興味が湧きますね
この小さな墓は、一色須賀(いっしきすが)という側室の墓だったのです。
この須賀という女性は、生涯を通じて慶喜に仕え絶大な信頼を得ていた女性のようです。
慶喜との間に子はいなかったようですが、
「慶喜様の御一生は、お蚕ぐるみにおさせ申しあげる」と言って、
慶喜が身に付ける下着や布団などを全て絹で縫い上げ、89歳で大往生したそうです。
その彼女の墓が、
正面から見えないながらも慶喜の墓の傍らでひっそりと見守るように配置されている事に、なんとも奥ゆかしさと、甲斐甲斐しさを感じますね。
さて
この慶喜の墓 前にも書きましたが 亀の甲羅のような形をしてます。
これは 何故なのか??ですが
この墓の形にこそ、慶喜が何故この谷中霊園に埋葬されたのかの答えがあります。
昭和天皇のお墓の前には鳥居があるのをご存知でしょうか?。
時々上皇様や今上天皇が参拝する様子が報道されるときに見えると思います。
つまり、天皇家は神道なんですね。
その神道におけるお墓の形式がこの形になるようです。
で 何故慶喜も同じような形にしたのか?? ですが
慶喜というのは最後の将軍です。
明治維新がおこり天下の征夷大将軍が、幕府崩壊と共に一般人になったのです。
ところが、その後明治天皇によって
慶喜は公爵に叙せられる事になります。
いまでは 四民平等ですが昔は人間に位がありました。
公爵というのは爵位における一番上の位です。
そのような位を賜った事に慶喜は感謝し、
また天皇家への忠誠を誓う為に慶喜は自ら仏教徒から神道への宗旨替えを希望したのです。
初代家康は、自らを神格化する為に神道へ改宗しましたが、
最後の将軍慶喜は、天皇への感謝の意味を込めて神道へと改宗したというわけです。
それにより、慶喜は両菩提寺である増上寺、寛永寺のいずれにも埋葬されずに、
明治政府が作った新しい墓所である谷中霊園に埋葬されたというわけだったのですね。
普段気にも留めないようなお墓の場所や形なども、
よくよく興味を持って観察してみたり、調べてみると
そこには昔の人の思惑や意図が見え隠れします。
全ての物事、成り立ちには理由があります。
しかし長い年月を経ることでそれが見えにくくなってしまいます。
また、宗教や民俗学、風習、文化などはひとつの観点からだけで見ると理解する事は難しいのだと思います。
広い目線で、様々な角度から見てみると、
その歴史的背景が浮き彫りにななってきますよ。
で 興味を持ったことの一つが
何故 家康が自ら死後 神なる事を決めたのか?????
ですが
この話は、、、
明日に続く、、、、、、。