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社長&顧問ブログ

2022.5.25

禁中並び公家諸法度

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

昨日までは 徳川家康が 何故神となって 日光東照宮に祀られるようにしなければならなかったのか??

それは 将来天皇を擁した敵が反旗を翻した時に こちらも神となっていれば

賊軍にならずに済み 戦うための大義がある事にするためだった と言う話でした。

 

家康は 関ヶ原の戦いにおいても 西軍が有利であろうと言われていたなか

色々な策をめぐらして 一日で 決着をつけていますね

 

自分が死んだ後も徳川家が繁栄すべく 色々な策を講じていたのです。

 

 

特に 色々な政策の中でも

禁中並び武家諸法度と言う制度は 朝廷を厳しく管理する制度だったのでは思います。

 

禁中並公家諸法度は、徳川家康の参謀格であった金地院崇伝と言う人を中心に作られました。

この方相当な優れものだたそうです。

 

そして、1615年9月9日、当時前関白であった二条昭実、大御所・家康、

2代将軍・徳川秀忠の署名で発布されたのです。

これによって、天皇家は

ひたすら学問に打ち込むように指示され

公家の養子縁組や性関係を規制され

天皇や公家は学問や文化を次世代に継ぐことを専門とさせられたのです。

 

この事で、江戸幕府の政治に口出しができなくなり、

江戸幕府の260年の太平の世の一因となったのですね。

 

江戸幕府の朝廷に対する対処は『陽尊陰圧』であり、これが目的だったのです。

 

つまり、表向きは尊敬して敬意を払いつつ、裏で様々な圧力と法律をかけてその行動を抑え込むものだったのです。

 

本来であれば家康は

太平の世を作るにあたり、天皇や公家も抑えておきたいところでした。

しかしながら天皇を表面上は『正義の象徴』として扱おうと考えたのです。

 

つまり天皇の許可を得て政治を行ったり、

天皇の名目で戦をしたりするものが

官軍、『正義の味方』として世の中に認められることに仕向けたのです。

そうしなかった場合は『賊軍』として世の中から悪者扱いされてしまいます。

 

『勝てば官軍負ければ賊軍』と言う言葉はこの辺りかたら来ているのではと思います。

 

実は奈良時代の701年に作られた『大宝律令』から天皇がトップとして国を治めるシステムが出来たのです。

 

江戸時代においては事実上消滅していましたが、表向きはまだ残っているとされており、

律令制をそのままに鎌倉幕府も室町幕府ができてました。

 

この法律はやっと明治になってから正式に廃止されたのです。

 

武家政権のトップとして幕府を作るための地位『征夷大将軍』は

天皇の命令で受けているのです。

 

それで家康も、それ以降の徳川将軍も、

自分は天皇の許可を得て政治のトップに立ってるんだぞ、ということを天下に知らせる事で権威付けして 統治を容易に行おうとしていたのです。

 

色々策をめぐらせた 家康ですが

 

他にも 色々な取り決めをしています

 

その話は????

 

明日へ続く、、、。。

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