EXECUTIVE BLOG
2022.11.13
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 江戸の犯罪人が更生するための施設の
人足寄せ場の話でした。
この人足寄場ができた背景は、
1787年、江戸・大坂など全国30余りの都市で米屋などが打ちこわされる天明の打ちこわしという騒動が起きました。
特に江戸では5日間も打ちこわしが続く事態になり、幕府は強い危機感を持ったのです。
そこで老中に就任した松平定信は思い切った改革を断行しました。
これが有名な寛政の改革です。
寛政の改革が行われたのは、打ちこわしという社会崩壊をなんとかしようという危機感からだったのです。
江戸時代有数の大飢饉となった天明の飢饉では多くの餓死者が出て、
農村から都市へ多くの人が移住しました。
そのために、
戸籍から外された無宿人と呼ばれる人々が多く出現してしまったのです。
あげくに、かなりガラの悪い連中も街を徘徊するようになって、都市の治安が悪化してしまいました。
こうした人々が中心となって起こしたのが天明の打ちこわしだったのです。
また、宿がない人々が寒さをしのぐためにたき火をしたため、
火事が多発するという問題も起きてしまったのです。
松平定信の政策は贅沢の禁止や倹約といったものだったので、都市部の景気は悪化し、
さらなる対策を必要としていました。
幕府としても何らかの対策を打つ必要があったのですが、
これは都市部だけの問題ではなく、農村の荒廃という社会の構造的な問題から起きたものだったので簡単にはいきませんでした。
それで 多く出現した無宿人対策として提案されたのが人足寄場だったという事になり
これを 長谷川平蔵が提案したのでした。
この石川島に出来た人足寄せ場ですが
石川島というのは現在の東京都中央区佃なのです。佃煮でおなじみの佃島です
こうして無宿人の更生施設、自立支援施設としてスタートした人足寄場ですが、
後に犯罪者を収容する刑務所の役割を果たすようになりました。
当初は罪を犯す前の人や刑期を終えた人が収容されていたわけですが、
犯罪者も収容されるようになったのです。
石川島の人足寄場は幕末まで存続しますが、明治維新によって石川島徒場と名前を変えて
さらに何度か改称した後、1877年に警視庁管轄下の石川島監獄署となり、
現在と同じような懲役刑が行われる施設ができあがりました。
その後、東京の都市化が進むと、石川島から巣鴨に移転し
この巣鴨監獄・巣鴨刑務所は後に巣鴨拘置所となります。
これが東京裁判で有名な巣鴨プリズンと言われたところです。
ちなみに、この巣鴨監獄は現在の池袋サンシャインシティがある場所です。
そして巣鴨刑務所はさらに府中市へ移転しこれが現在の府中刑務所となるのです。
という事で府中刑務所の発祥の地は 佃という事になりますね。
このここで出来る東京名物佃煮は 今では全国で人気の商品です。
しかし ここで佃煮が出来るようになったのには 深い訳があるのです。
それには 明智光秀も関係することなのですよ、、、、
その深い訳とは?????
それは
明日に続く、、、。