EXECUTIVE BLOG
2022.11.16
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 人足寄せ場の話から
佃煮の話になっていました。
食べ物の歴史を学ぶのも面白いと思います。
今日は 江戸名物佃煮は 何故 佃島で出来たのか??
の話になります。
が その前に 佃と言う名前はどこから来たのか? にも興味が湧いてしましました
佃と言う字をよく見てみますと 人編に田と書きますね
人が入り込んで田んぼを作ったという事で 佃になったとか と言う話を
聞いた事があります。
で今日は この佃で 何故佃煮が作られるようになったのか???
の話になります。
実は佃島の漁民たちは、もともとは関西の出身だったのです。
なぜ彼らが江戸に移り住んで漁をし始めたかと言うと、
歴史的大事件である本能寺の変にその理由がると言われています。
天正10年(1582年)6月に、明智光秀の謀反が起こり、
本能寺で織田信長が倒された時、徳川家康は大阪の堺にいました。
一報を聞いた家康は、信長の盟友である自分の命も危ないと直感し
急いで三河の国に帰ろうと考えます。
しかし神崎川(現在の大阪市住吉区)に差し掛かった時、
渡る船がなく立ち往生してしまったのです。
その時、家康一行を助けたのが、
摂津国佃村の庄屋・森孫右衛門と漁民たちだったのです。
彼らは手持ちの漁船と、いざという時のために備蓄しておいた小魚煮を
家康一行に提供しました。
この日持ちの良い小魚煮は、厳しい道中を急いで進まなくてはならない一行を、大いに助けたそうです。佃村の人々に大いに感謝した家康は、それ以来佃村の人々と結び付きを深めていきます。
そして
徳川家康が幕府を開く時、佃村の森孫右衛門と30余名の漁民も江戸に連れて行ったのです。幕府は鉄砲洲の東の干潟、約180メートル四方と、特別な漁業権を漁民たちに与えます。築島工事を行い漁民たちが移り住んだこの島は、
彼らの故郷にちなんで「佃島」と名付けられたのです。
以来、漁民たちに保存食として作られていたあの佃煮は、
美味しさでも有名になっていき、調味料が塩からしょうゆになり、
使う具材も新鮮な白魚など様々な魚を使うようになりました。
やがて江戸に勤めている大名たちの食膳にも上がり、江戸の町に広がって行ったのです。
さらに、参勤交代によって、武士たちが江戸のおみやげとして持ち帰ることで、
どんどん全国に広がったようです。
つまり 本能寺の変がなかったら 佃煮は産まれなかったという事になるのです。
歴史的事件と食べ物がこのように関連しているという事が分かると面白いですね。
こうして調べていると またまた興味が湧くことがあるのですが
佃のとなりは月島があります。
月島と言えば もんじゃで有名ですね、
しかし 何故 月島と言えばもんじゃなのか??
そもそも もんじゃって何だろうと思います、
この もんじゃとは????
それは??明日に続く、、、、、。