EXECUTIVE BLOG
2022.11.18
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 佃煮で有名な 佃から 隣町の 月島の話になりました。
今日は 月島は何故もんじゃの聖地になったのか??
の話に進まなければなりませんが、
その前に、、、、。
佃島 月島とくれば 同じようにこの隣には 石川島と言う島がありました。
佃や 月島には それぞれ出来上がる歴史がありましたが
石川島の歴史にも興味が湧いてきますね、
現在、高層ビルが建ち並ぶ佃島・石川島一帯は江戸時代、隅田川の加工を埋め立てて形成されたのです。
先日も書きましたが、
佃島は、徳川家康が江戸に入った際に家康と縁の深かった大坂佃島の漁民が移住したことにはじまりました。
このとき彼らが漁の安全と大漁を祈願して建立したのが住吉神社です。
当初、本殿は南向きだったが、のち江戸城のある西向きとされ、400年以上の時を経た現在も同じ場所に鎮座し続けているのです。
この住吉神社は
古くから海上安全・渡航安全を願い、海運業や各問屋組合をはじめとする多くの人々から信仰されてきた神社で、
現在も、月島、勝どき、豊海、晴海の4地域の氏神として崇敬を集めている有名な神社なのです。
とても静かな雰囲気で、都会の喧騒を忘れさせてくれるかのような落ち着いた神社です。
都心のパワーススポットとしても有名で多くの方が参拝されているようです。
『分間江戸大江図』(1726年)を見ると、
このころはまだ別々の島であった様子がうかがえます。
江戸時代初期、隅田川にある小さな島は「三国島」「森島」または「鎧島」と呼ばれていました。
寛永3年頃に船手頭の石川八左衛門正次が幕府から約17,000坪の土地を拝領して寄洲を島に築き立てたので、「石川島」と呼ばれるようになったそうです。
石川八左衛門正次は、「船手頭」や「御船奉行」という役職にあり、
幕府用線の保管・運行の任務に当たっていました。
そのため、石川島は江戸湊を防衛する機能を持っていたと考えられています。
その後1853年(嘉永6)水戸藩によって造船所が設けられ、
その後、石川島造船所として石川島の名を残す唯一のものとなりましたが、
造船所自体は1939年当時の深川区(現、江東区)の豊洲に移転したのです。
第二次世界大戦後、同造船所は石川島重工業、石川島播磨重工業(現、IHI)と改名され、造船以外の部門を扱う佃工場が残っていたが順次縮小され、1979年閉鎖、売却されました跡地はウォーターフロント開発の対象となり、
1986年着工の「大川端リバーシティ21」として生まれかわり、
今では超高層住宅が建設される人気の街になったのです。
で この月島が何故もんじゃの聖地となったのか???ですが
またまたその前に
日本を代表する有名な 石川島播磨重工業の発祥の地が この月島と言う事は分かりましたが 石川島播磨工業は 現在 社名はIHIになっていますね
この 社名は 当然 石川のI 播磨のH 重工業すなわちインダストリー のIが
組合わされて IHIになったのだとばかり思っていましたが
実は これは 大きな勘違いだったのです。
その真相は
明日の続く、、、、、。