EXECUTIVE BLOG
2022.11.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは もんじゃ焼の歴史の話でした。
もんじゃ焼は 昭和に入ってからの食べ物で 江戸時代は文字焼と言う駄菓子を
子どもたちは食べていたようです。
で このもんじゃ焼 いつの間にか 月島名物となっているのですが
何故 月島が聖地になったのか??? が今日の話となります。
文字焼きは、子どもの駄菓子だったのですが、 これが今のように大人向けのもんじゃ焼きは、いつ生まれたのでしょうか?。
月島もんじゃ振興会協同組合の広報によりますと
どういった背景で子どもの文字焼が、今のような大人の食べるもんじゃ焼きに変わっていったのかは、正確に把握できていないとの事のようです。
しかし、大人が食べるもんじゃ焼きを商売として提供したお店は、
今も月島西仲通り商店街(月島もんじゃストリート)で人気の「好美家」なのだそうです。
ここの店主によりますと
子どもの駄菓子だった文字焼きが、浅草など歴史の長い土地で大人の食べ物になった
お好み焼きのヒントを受けて祖母が始めて作ったのではないかと話しているようです。
残念ながら、日本初のもんじゃ焼き屋としてオープンした好美屋でも、
大人が食べるもんじゃ焼きは好美屋の考案で生まれたのか、それとも似たような食べ物が当時の東京のどこかで親しまれていて、
それを「商売になる」と創業者が考えお店を出したのかは分からないようです。
ただ、『中央区月島におけるもんじゃ屋の集積プロセス』と言う本によりますと
大正時代の月島には131件程の駄菓子屋があり、
子どもたちは文字焼を大いに楽しんでいたと報告されています。
それが1940年代から大人向けのお好み焼屋で合わせてもんじゃを出し始め、
アルコールをメニューに入れることで、子供の駄菓子だったもんじゃが大人の食べ物へと位置づけが変わったのでは? 推測されています
つまり、もんじゃ焼きは、お好み焼きのサイドメニューとして出されたとの話だったのです。
そもそもお好み焼き自体も、もともとは明治時代の後半に流行した憧れの洋食の一つだったようで、
ある種のパロディとして、洋食の材料や調味料を使って文字焼をベースに再現したところからお好み焼きは始まっていると言われています。
ある種のパロディで生まれたお好み焼きという料理を、もう一度パロディとして昭和の人たちが文字焼で作ってみたのかと言う説があります。
結果として、お好み焼きのパロディメニューが生まれ、
その食事が月島周辺で人気になり、「これは商売になる」と、
月島で初めてもんじゃ焼きのお店、好美屋が生まれ、次々に
月島にもんじゃ焼きささんが産まれたのですね。
江戸の文化から 明治維新により 西洋文化が取り入れられたことから
パロディとしてお好み焼きが産まれ
さらに そのお好み焼きのパロディとして もんじゃ焼が産まれたと言う事になります。
なにか 江戸っ子の粋な心意気が垣間見れる気がします。
さて この江戸は 家康が来るまでは一地方の寂れた地域だったのです、
そこの言葉が後に標準語になぜなって行くのか?
家康は三河の人物ですですから名古屋弁が主流だったはずです、、
それが 何故??????
かは
明日に続く、、、。