EXECUTIVE BLOG
2023.3.16
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは お米の話でした。
このお米 昭和53年までは 米穀手帳を持って 米屋に行かなければ
正式には変えなかったのです。
戦前から戦後にかけては 世帯ごとに売れるお米の量が決まっていたのですから
今では考えられません。
お米を 米屋以外で売っているコメの事を 闇米と言ってました。
つまり 闇の市場で非合法で手に入れる事が出来たのです。
これは 戦前から戦後にかけては厳しく取り締まりされていましたが
さすがに 戦後も数十年も経ちますと
この制度も名ばかりになり
非合法で売られた米の呼び方も 闇米から 自主流通米と表現も柔らかくなってきてました。
それで 私も学生時代の後半は 米穀手帳を持たずして 近所のスーパーに
自主流通米を買いに行って、これはとても便利だと感じていたのです。
今では 信じられないような話ですよね、、、。
戦後すぐ位は 都心では食料が不足していたので
満員列車に乗って 地方の農家を訪ねて お米や 芋などを 大きなリュックに背負って
買って帰っていたのです。
そうまでして 必死に食料を集めていた時代もあったのです。
今では 食品ロスをなくそう と言う運動をしていますが
当時の人が見たらなんと言うでしょうか??
これら食料品を通常ルートではなく 非合法のルートで売っていた市場が
あったのですが
これらの事を闇市場と言ってました。
ここで は米軍の払い下げの 缶詰なども売られていましたが
闇市場ですから 値段も法外な価格で取引されていたのです。
当時の天皇陛下も物凄くまじめな方でしたから
皇室ですから いくらでも 闇市場から食料品を入手して 美味しい食べ物を
食べる事が出来たのですが
闇市場での購入を禁じて 一般国民とおなじように とても質素な食事を
されていたと言われています。
当時の天皇の料理番の回顧録を読んでみますと
物資が少ない中での調理はとても大変だったように書かれていました。
このような昭和天皇でしたから 連合国占領軍のマッカーサーも心打たれたのでは
と思います。
人々は飢えを凌ぐために 闇市から闇米を買った事で
多くの人が逮捕されました。
しかし 闇市で食料を調達しない事には 実際には
生きて行けなかったのです。
戦後 闇米を頑なに拒否したために 悲しい事件が起こりました
その事件とは??
いったい そこで何が起きたのか????
は
明日に続く、、、。