EXECUTIVE BLOG
2023.6.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
熊本から福岡の話になって
その後 鹿児島薩摩の話になってしまいました。
しかし 良く考えてみますと
鹿児島は 島ではないのに 何故鹿児島なのか?? にも
興味が湧きますね
この話になると 相当過去の神話の時代に遡らなければならいようなので
又後日と言う事で
今分かる範囲で言えば、
鹿児島は街の名前で、薩摩は国の名前(藩ごとに国と呼んでいた)です。
もっと言いますと、
今の鹿児島県は、薩摩国と大隅国をまとめて1つの県に編成したものです。
なので鹿児島が街の名前と県の名前の両方に使われるようになったのは、
明治になってからということになるようです。
で
今日は この大国薩摩を何故家康は潰さなかったのか? の
話になりますが
詳細は後日にしますが
潰しに行くにしても 江戸から遠いこともあり
本格的に攻撃するには 幕府側の消耗も激しいので 危険とは分かりながら
監視をする方法を選んだのです
それでその対策として
その対策として家康・秀忠は、薩摩から京都・江戸への街道沿いおよび周辺に、
徳川家に忠誠を誓う信頼できる大名を配置し、大きな城郭を築いたと言われています。
それが
・熊本城(細川家)・福岡城(黒田家)・広島城(浅野家)
・岡山城(池田家)・姫路城(池田家・本多家・榊原家・酒井家など)
・大坂城(徳川将軍家:城代)・和歌山城(紀州徳川家)・津城(藤堂家)
・名古屋城(尾張徳川家)・駿府城(徳川将軍家:城代)
と本丸
・江戸城(徳川将軍家)となります。
もし 薩摩が幕府に反旗を翻すとなると 江戸城攻撃までに
これらの城を打ち破りながら 進軍させなければなりませんので
これは不可能と考えた布陣を打ったと言うことです。
しかし
時代は流れて激動の幕末、家康が危惧した通り薩摩と長州が ”反乱” を起こしたのです。
このときは徳川慶喜がなんと「大政奉還」してしまい、
戊辰戦争の時には 薩摩軍が錦の御旗を掲げたことにより
徳川に忠誠を誓った大名が軒並み「朝廷側」に寝返ってしまったのです。
結局は家康の対策は効力を発揮せずに終わってしまったかのように思えました。
しかししかし
明治十年に西郷隆盛を首領とする ”薩摩軍” が蜂起して
今度は明治政府対薩摩による西南戦争が始まるわけです。
このときに最初の防御地点である熊本城での足止めに成功し、
それが理由で西郷薩摩軍は滅んでしまいました。
まさに家康の対策が有効であることを満天下に示したことになるのです。
徳川家康恐るべし!と言えますが
はたしてそこまで家康が予期していたかどうかは不明です、、、。
この西南戦争の首謀者は 維新の時は英雄だった西郷隆盛ですが
これにより逆賊の汚名を着せられ確か靖国神社にも祀られていませんね
その理由も又後日になりますが
それでも死後 南洲神社として 神様になり祀られるのですが
その神社が あんなところにあるのです
何故 あそこにあるのか????
は
随分前に このブログでも書いていますが
今一度ここでおさらい、、、
それは、、
明日に続く、、、。