EXECUTIVE BLOG
2023.8.16
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
モーレツ写真の話から 特攻隊生みの親の 大西瀧治郎の話になりました。
彼は 戦争終結に向けた閣議のあと 東郷外務大臣に 後2000万人の男子を
特攻に出せば 日本は必ず勝てると直訴したのです。
勿論東郷外務大臣はそんな話に耳を傾けるわけはありませんでした。
これだけ聞きますと 多くの若者を特攻に行かせ 尚 当時の日本の男子の半分を特攻に行かせると言うのは 何と酷い男だ!と思いますが
彼も又その責任の重さを知っており 終戦との聖断がおりたなら 粛々とそれに従う覚悟は出来ていました
しかし 聖断に従わず 戦争続行を叫ぶ若手将校たちを納得させるためにも
大西は 最後まで特攻を敢行すると政府に対して粘った姿をみせたのでした。
それだけの男が 一旦聖断が降りた以上粛々と従うのだから 全軍これに従う事を
納得させるための発言であったとも言われてます。
彼自身 特攻の命令を出した全責任を取り 終戦の翌日に割腹自殺をするのです。
通常切腹には 介錯をともないます。 あの三島由紀夫も割腹自殺を遂げた際は
介錯を行っています。
これは 腹を切って苦しまないようにと言う思いから一気に介錯を行うのです。
しかし この時の大西は介錯を断るのです
と言う事は 腹を切り裂き 相当苦しいはずなのですが
自分が部下たちに与えた任務の事を思うと これくらいの苦痛は受けるのが当たり前だと
考えたからです
16日早朝2時ころに 切腹をするのですが その日の午後近くに苦しみながら
亡くなっているのです。
これでよしとするかどうかは別として
彼は その事で責任を果たそうとしたと言う事です。
昭和18年くらいまでは なんとか戦争は継続できていましたが
その後は 日本軍は苦しい戦いの連続でした
ミッドウェー海戦での敗戦 山本五十六連合艦隊司令長官機が撃墜されてしまい
もはや まともには戦える状態になって行きました。
それでも 和平交渉もせずに 泥沼の戦いを続けてしまったのです。
そして いよいよ 昭和20年 沖縄陥落 原爆投下により 戦う余力など殆ど残っていませんでした
それなのに 政府、軍部統帥部は 敗戦を認めようとしなかったのです
何度も 閣議を開き ポツダム宣言を受諾か否かの決議を開いても
軍部の反対があり 決議されなかったのです。
閣議は全員一致で決まるので 陸軍大臣が反対してしまえば 閣議決定されないのです。
では 陸軍大臣を総理が更迭すれば良いではないかと思いますが
それをすると 内閣即辞職になり 新内閣で又軍部は 戦争継続派の大臣を送り込む事になるのです。
これではいつまでたっても 和平への道が決まりません
陸軍は 徹底抗戦を叫んでおり 絶対にポツダム宣言受諾受け入れに反対の立場でした。
何度閣議を開き各大臣からも戦争継続は不可能であるとの意見が出されますが
陸軍大臣はあくまでも本土決戦に持ち込むと言う意見を変えなかったのです。
これではいつまでも 戦争を終わらせることが出来ません
当時は この閣議とは別に 作戦会議と言う事で 最高戦争指導会議と言う会議が
行われていました
この構成員は
内閣総理大臣 外務大臣 陸軍大臣 海軍大臣 陸軍参謀総長 海軍軍令部長の
6名で行われていました
この会議には重要な案件に際しては天皇の臨席を奏請して御前会議ともいわれました。
そこでも 結論は出ません
何故なら 戦争終了は 総理大臣 海軍大臣 外務大臣で
戦争継続派は 陸軍大臣 陸軍参謀総長 海軍軍令部長で
意見が割れて結論が出ない状況に陥っていました。
その御前会議の席上 今まであり得ない提案を鈴木首相が行ったのです。
その提案とは?????
日本の運命を変える提案とはなにか????
は
明日に続く、、、。