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社長&顧問ブログ

2023.8.18

「一死以て大罪を謝し奉る」

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 大日本帝国が 終戦を如何に迎えるか?

ポツダム宣言受諾をするのかしないのか? の話でした。

 

日本には戦う力が殆どないと分かっていながら それでも軍部強硬派は

2000万人の男子を特攻につぎ込むとか 本土決戦に持ち込み そこに死中に活を持ち込もうと考えていました

これでは 閣議で戦争終結の決定が出来ません。

 

それで 鈴木首相がそれまでの常識を覆し 半ば軍部を騙す感じで 御前会議を開き

天皇陛下の意見をお伺いすると言う奇策にでたのでした。

 

これには 御前会議に出席していた 陸軍大臣 参謀総長も面食らいましたが

この意見が出た以上 天皇陛下に仕える身としては抗う事が出来なくなりました。

 

それで 陸軍省に戻り高級将校に対して陸軍大臣は 承詔必謹を訓示したのです。

 

この承詔必謹とは

 

憲法十七条(十七条憲法)第三条の筆頭に記されている語で、

「詔を承けては必ず謹め(みことのりをうけてはかならずつつしめ)」と訓読されます。

詔(天皇の命)が下されたならば必ず謹んで従え、という意味と解釈されるのです。

 

この言葉が呪文のようにやがて全軍に浸透して行くのでした。

 

しかし それでも これに納得しない一部陸軍若手将校は  承詔必謹を受け入れる

政府や軍部指導部を弱腰の臆病者とののしり 反乱を企てたのでした。

 

彼らは 近衛連隊を動かし 反乱を企てようとしました。

それで当時の近衛連隊の森師団長に対して立ち上がる事を進言したのでした

 

しかし 天皇を守る連隊である森師団長としては そんな申し出にのれるわけでなく

若手将校を一喝するのですが これに対して 若手将校は あろうことか 森師団長を殺害してしまうのです。

 

これにより 反乱軍は打つ手無しのはずでしたが、殺害した師団長の名をかたり

師団命令を出したのです。

 

この時 皇居を警備していた芳賀大佐率いる近衛連隊に対して 皇居占拠を命じ

終戦のラジオ放送収録の為に集まっていた 情報総裁他を拘束した上に

天皇陛下のポツダム宣言受諾する旨を録音した 録音盤の探索を命じたのです。

 

天皇を守る近衛兵が 皇居内を家宅捜査を行うのですが

この時の反乱軍の発想は

二・二六事件の時の反乱軍は 天皇を擁していなかったからであるが 今回は

天皇陛下は 我が手中にあるのだから これに対して向かってくる側が反乱軍であるとの

勝手な解釈をして 録音盤が放送されることを断固拒否しようとしていたのです。

 

しかし 芳賀大佐は 命令を受けたものの いつまで経っても 陸軍大臣は現れず

これはおかしいのではと気づき始めたのです

 

一方 皇居の外にいた反乱若手将校は 更に東部軍を動員させるべく 東部軍司令官に直訴しにいくのですが

ここでも司令官に一喝されてしますのです。

組織上 近衛連隊は東部軍の指揮下にあるので 東部軍司令官は この偽命令により

動かされている芳賀連隊長の元に正しい命令を伝えるのに 15日早朝 皇居に乗り込むのです。

 

これにより 皇居内を占拠していた近衛連隊は偽命令を解除され 東部軍司令官の命令に従い 兵を引く事になり

無事 録音盤は NHKに朝運ばれることになり

15日 正午に 全国民に向けての 天皇陛下じきじきの声で ポツダム宣言を日本は受諾した旨の放送がなされ

これにより 全国民は 日本が敗戦したことを知ることになったのです。

 

そして このラジオが放送される時に 反乱を指揮していた 畑中少佐ほか反乱軍幹部は次々に皇居前で自決したのです。

 

この騒動が行われていた早朝には

全軍に承詔必謹を訓示していた 阿南陸軍大臣は

「一死以て大罪を謝し奉る」を残して 自刃したのです。

 

その後日本は新しい時代を迎える事になるのですが

戦時中における命令は何が何でも守らなければならいものでした。

 

この命令が ある人の運命を 戦後20年以上縛り続ける事になったのですが

 

このある人とは????

 

一体どんな運命だったのか???

 

日本中が 戦後20年以上経って目にした 命令の呪縛とは??????

 

 

明日に続く、、、、。

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