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社長&顧問ブログ

2023.8.22

百人斬り????

 

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 開戦の責任者として極東軍事裁判で A級戦犯として

処刑される事になった 東條英機の話でした。

 

彼は 戦争時代に兵士に戦陣訓を守らせ 生きて虜囚の辱めを受けずを

徹底させて捕虜になるくらいなら死を選べとの命令をだして

その結果 多くの兵士や民間人までが自決へ追い込まれたとされています。

 

前にも書きましたが この生きて虜囚の辱めを受けずの奥にある話として

中国で捕虜になった兵士や民間人が 生きたまま腹を割かれて石を詰め込まれたりとの

虐待を受けた事があり

そんなひどい目に遭う位なら 捕虜にならず潔く自決したほうがマシだ と言う話も残っています。

 

捕虜への虐待は国際法上は禁止されていますが 実際にはこのような非人道的な事も

多くあったようです。

 

一方で南京戦の時 日本軍下士官が

百人斬り競争として 競って中国人を切り殺したと言う話も残っています。

これは1937年11月から12月にかけての南京戦において、

上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と

同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、

確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、

野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話でした。

 

戦後、南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑されたのですが、

 

この話は殆どが作り話で 彼らは 戦闘以外で人を斬った事はないと述べています。

 

戦時中の話しは戦意高揚として ありもしない話を武勇伝の様に伝えたりしますが

いずれにしても 戦争と言う悲劇の中で生まれた出来事だと思います。

 

話は戻り 東條英機らは とにかく戦争の責任を取らされて 連合国の報復見せしめ

裁判によって絞首刑に処せられ その遺体すら遺族には戻されなかったのです

 

A級戦犯7人の処刑は1948年12月23日午前0時過ぎに東京の巣鴨プリズンで執行されますが、

米軍はすぐ遺体を棺に入れ、深夜にトラックで第8軍司令部のある横浜へ運び、

朝に火葬し、そして遺骨を軍用機に積み、

その日のうちに太平洋上空からばら撒いたそうです。

 

この一連の動きがばれないようにとものものしい警戒で、

火葬場では入り口にいたカメラマンたちを退去させ、火葬の際は武装兵士たちを周辺に配置するほどの厳戒態勢だったそうです。

 

占領軍は遺体処理についてなぜそこまで隠し、

埋葬せずに散骨するという徹底ぶりだったのでしょうか???

 

日本占領の司令塔だった連合国軍総司令部(GHQ)の幹部は後年の著書で、

A級戦犯の墓が将来、神聖視されることがないようにするためと 書いています。

 

そこまで徹底して日本が再軍備化しないように考えていたと言う事ですが

 

しかし 彼らの墓といわれるものが愛知県のある場所にあるのです。

 

これだけ徹底した火葬だったのに その墓に眠っていると言われる骨は

どうしたのか????

 

 

明日に続く、、、。

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