EXECUTIVE BLOG
2024.1.24
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 長々と 駒姫の話でした。
何も知らないうら若き娘が あった事もない 秀次に嫁ぐと言う事だけで
処刑される話は 涙なくしては聞けませんね、
しかし ここまで酷い事を何故秀吉が行ったか?を 考えてみますと
単に 我が子の秀頼に権力を移譲するだけでの話であれば 秀次だけを抹殺すれば
良いのです、
まあ これも酷い話ではありますが、、、、
しかし そこで 何の罪もない 正室 側室 その一族 また駒姫まで殺さなければならなかったのか? は 今の感覚では到底理解できませんね
それは その関係者を生き残す事で遺恨がのこり 例え その時が3歳の子供であろうが
15歳くらいの姫であろうが 復讐心が芽生えて やがて 秀頼に対して謀反を起こす事を
恐れたのです。
これは 何度も書いてますが 関ヶ原で負けた 薩長が 260年後に徳川に対して反旗を翻したのを見れば 分かることです。
江戸時代も 敵討ちは正当化されていましたね、
忠臣蔵は その象徴かもしれません、、、。
江戸時代は、仇討ち、つまり復讐が認められていたのです。
武士たる者、親や兄弟を殺されたら、自分の力で復讐するのが当然だと考えられていたので、届け出さえすれば、必ず認められていたのです。
仇討ちが社会的に黙認されていたのは、武士たちの汚名を晴らすという自尊心のためでした。
「主君や親兄弟を殺されて平気な顔をしているヤツは武士ではない」
と言う事だったのです。
武士は、面子をつぶされたり、汚名を着せられたりすることを極端に嫌がり恥だと
考えていました。
たとえば江戸時代、親や兄を殺されるなどして「敵」をもった場合、まずはそれを討つために、幕府に届け出ます。
そのうえで一度、脱藩し、浪人の身となって敵を追いかける事になるのです。
浪人なので当然禄はありませんが、どこかに雇われるというわけにもいきません。
たまに日傭取りや用心棒などで糊口をしのぐことは可能だったかもしれませんが、
基本的には仇討ちを狙っているあいだの生活は、親類などに頼るほかありませんでした。親類も、仇討ちが成し遂げられないと一門に悪い評判が立ってしまうため、
何としても成功させようと頑張り、助っ人を申し出る事もあるようです。
赤穂事件の浪士たちは、この心性によって主君の汚名を晴らし、仇を討ち取り、後世に「義士」として名を残した事は周知の事実ですし
それは彼らの行った仇討ちが、「義理を果たす」「汚名を晴らす」といった武士の倫理に適ったものであり、人々が忘れかけていた武士の生き様を象徴するものだったからか
いまだに 映画や演劇でも上演され 国民的にみてもこの仇討ちに喝采しています。
これが日本人の本質だったのでしょうか?
その後 日本は 第二次世界大戦でアメリカを中心とする連合国に敗北しますね
この気質を持った日本人であれば きっと復讐心が芽生えたはずです。
多分 米国は日本を研究しており もしや将来 自分たちに対して復讐してくるのではと
考えたのではないでしょうか???
それで 占領後 徹底的に復讐の芽をつぶすために 先にも書いたように A級戦犯の処刑を天皇陛下の誕生日に合わせたり
再軍備が出来ないように 憲法九条を押し付けたりしたのではないでしょうか?
当初 昭和天皇も戦犯になる恐れがありましたが 米国は 天皇迄処刑してしまうと
日本人の復讐心が一気に燃え上がり これでは統治不可能と考え
象徴と言う形で 日本国民から復讐心の芽をとり 悪いのは 当時の東条以下軍部のせいだとしてしまったのではと思います。
では 同じように 南米ではどうだったのか????
の話は
明日に続く、、、。