EXECUTIVE BLOG
2024.2.8
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 進駐軍の話になっていました。
進駐軍が日本にいたと言う事すら知らない方が多いのでは思います。
簡単に言うと 日本が敗戦後 連合国によって占領されていたと言う事です。
植民地とは違いますが 彼らかすれば 植民地みたいな感覚だったのではと思います。
彼らは 戦後の日本をコントロールしやすくするために それがその後の日本にとって
良かったのか悪かったのかは分かりませんが
財閥解体から学校制度に在り方まで変えてしまいましたね、
そして 更に驚くべき改革を押し付けようとしていた話に今日は進むのですが
その前に、、、、
先日も書きましたが 戦後の日本は食べることもままならず 米もなかなか手に入りませんでした。
これも前に書いていますが お米は配給制度で自由には買えませんでした
自由に買う米は 闇米といって それを行ったものは処罰されていたのです。
そして その事をきちんと守ろうとした ある裁判官は栄養失調で命を落とすと
言う事件もあり 今では考えられないような事が日々おきてました。
一方の米軍は 豊富な食糧が届いていました、
それで当時の少年たちは 「ギブミーチョコレート」と言う言葉を真っ先に覚えて
見かけた米兵にたいして 声掛け手をだしていたのです。
それを見ていた米兵はなんと思っていたのでしょうか?? こんな国民が 米国相手に戦争をしていたとか 信じられなかったかもしれません。
で この時 米兵が持っていたチョコレートがどんなチョコレートだったかを
ご存知の方は少ないと思います
今では コンビニに行けば幾らで色々な種類のチョコレートがありますが
当時米兵が持っていたチョコレートは 単に甘いチョコレートではなく
栄養価が高くしているチョコレートだったのです。
この軍用のチョコレートは、士気高揚の効果も見込まれ、ポケットサイズの高エネルギー非常食として1937年から標準配給品のひとつとなり、
野戦配給品の一部として支給されていたのです。
重量、サイズ、耐熱性の面から軍仕様の特別なロットで製造されており、米軍用チョコレートの大部分は、
米国チョコレートメーカー最大手のハーシーが製造していたのです。
このメーカーのチョコレートは我々も良く目にしていると思いますし
大変美味しいチョコで有名ですね、、。
このチョコレートは非常用に作られていましたので 高カロリーですから
当時の栄養失調気味の少年たちは これで救われた人も多かったと思います
東京では 多くの親を亡くした戦災孤児が沢山いて 日々が食うや食わずの毎日ですから
米軍あいてに必死でチョコを求めていたのだと思うと
このような悲惨なめに二度と子供たちが遭わないような世界を守って行かなければならないと思います。
そしてこの当時は少年だけでなく 困っていた人がいました
そして その人たちを助ける活動をしたかたが
澤田美喜さんだと言う話に
明日は
続くのか???