EXECUTIVE BLOG
2024.2.28
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
東京六大学の誕生秘話の話で
当初は 早稲田 慶応 明治 そして法政大学が加わり
東京4大学でした、 この次に 有力な大学が 学習院や 中央大学だったのですが
ご承知の通り 5番目は 立教大学ですね、
何故学習院大学が選ばれず また 何故 中央大学が有力候補だったのかは
学生野球の父と呼ばれた 飛田穂洲と関係があったからなのです。
まず 学習院が選ばれなかった理由は 現在でこそ 学習院は東京にありますが
元をただせば 京都の学校と言う事で 候補から外されました
何故学習院が 京都の学校なのか??? と不思議に思う方も多いかもしれませんが
もともと朝廷の教育機関として構想されたのが始まりだからです。
京都の朝廷においては、平安時代末期の安元の大火で、律令制による大学的な教育施設が焼亡、廃絶して以来、公家の子弟のための公式の教育機関が存在せず、
光格天皇により大学寮の再建が構想されていたのです。
次代の仁孝天皇は学校創立を実現させるべくこれに着手し、
江戸幕府の承認を得て天保13年に学校の設立が決定して、弘化3年に京都御所建春門外の開明門院跡に講堂が竣工しました。
翌4年から講義が開始され、三条実万が初代の学長に就任したのです。
嘉永2年に孝明天皇が「学習院」の勅額を下賜して以降は学習院と呼ばれるようになりました。
こういう経緯もあり 学習院は 東京の大学ではないと判断されたことが
六大学に選ばれなかった理由です。
しかし 考えてみますと 慶応の創立者は福沢諭吉 早稲田は大隈重信ですが
学習院の 創立者は 孝明天皇になるわけですから
なんと格調高い大学かと思ってしまいます。
それで皇室関係者は学習院出身が多いと言う事をご理解いただけるかと思います。
で 学習院は加盟できませんでしたが
何故 中央大学が確定と思われたのか???
は
昨日の飛田さんの話に戻らなければなりません
それらの話は、、、
明日に続く、、、。