EXECUTIVE BLOG
2024.4.25
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは西郷さんの話から 西郷さんのライバルは 大久保利通だったと言う話で
会社で言えば 三井グループと 三菱グループが ライバルで
それぞれに 人の三井 組織の三菱 と言うのが社風だと言われています。
ここで 日本三大財閥の住友グループを忘れてはいけませんでした
人の三井 組織の三菱とくれば 住友は何だろう?? と思う方も多いかもしれません、
住友は 結束の住友 と言われているのです。
他にも芙蓉グループと言われている組織がありますが かつては 安田財閥と言われていたグループですね、
各グループの話については 又後日と言う事で
西郷さんのライバルが大久保さん 三井のライバルが三菱であるかのように
大学で言えば 早稲田のライバルは慶応と言われています。
では 早稲田の大隈重信と 慶応の福沢諭吉は ライバル関係にあったのか??? に
興味が湧きます。
そもそも 二人は知り合いだったのか???とか 考えてみた事も学生時代はありませんでした。
福澤諭吉と大隈重信の出会いは、明治6(1873)年だったそうです。
それまで、お互いに食わず嫌い、犬猿の仲と思っていたが、
周囲の人がおもしろいから会わせてみようと画策し、
会ってみたら意気投合し、親密な関係となったのです。
ただ、直接の面識がない段階では、2人はお互いの事をあまり良く思っていませんでした。
そこで、両者と面識がある雑誌の編集者が2人を会わせるために酒席を設けたところ、
福沢諭吉と大隈重信は意気投合したと言う話が残っています。
この時、諭吉に学校の設立をすすめられた事が、
大隈が後に東京専門学校(早稲田大学)を設立する事になったきっかけだと言われています。
開校式の際、当時の政変の影響で式に出席できない大隈に代わり、
祝辞を述べたのが なんと 福沢諭吉だったのですよ。
また、福沢諭吉は大隈重信が佐賀出身である事にも注目していました。
諭吉は門閥制度は親の仇と公言しており
ベストセラー『学問のすすめ』でも「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
と書いた福沢は、
明治政府の薩長閥に対しては根本的に対立感情を持っており、
薩長閥ではない大隈に目をかけていたとも言われているのです。
それでなのか、福沢諭吉は、参議である大隈重信配下に門下生を送り込み、
憲法の草案作成を行わせようとしていましたが、
長州閥の伊藤博文らが大隈・福沢派を政府から追放した明治14年の政変により
目的はとん挫してしまいましたが、以後も二人の交際は続いたのです。
後日談ですが、福沢諭吉が死亡した際、遺言により遺族は供花などを断っていました。
そこへ大隈からの供花が届いた時に、遺族はこればかりは、と丁重に受け取ったと言われています。
この事から分かるように
ふたりの友情が浅からぬものであることを示しており、まさに盟友だったと言う事です。
いつから 早稲田と慶応がライバルと言われだしたかは 知りませんが
奥を知ってしまいますと ライバル校ではなく 盟友と言う事になりますね、、、。
と言う事でライバルの話しはここで終わりと言う事で
福沢諭吉出身の大分県や 大隈重信出身の佐賀の方々は
自県の 英雄として彼らを挙げるのか? それとも他に英雄が居るのか????
の話は
明日へ続く、、、。