EXECUTIVE BLOG
2024.6.7
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは アメリカの黒人の話しでした
差別が根強く残っていた時代は 黒人は映画にでることも出来なかったのが
シドニーポワチエが出て来てから 黒人俳優の地位も向上していったと言う話でした。
かつてアメリカでは、日本人に対する差別が公然と行われていたことはよく知られた事実です。
そのような状況に対して、怒り、日本人を尊敬し、時に助けてくれた心強い「仲間たち」がいたことをご存知でしょうか??
今日はその話です
1919年、パリ講和会議が行われましたね、
第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、
国際連盟創設のための議論が進められていたのです。
ここで 米国の黒人たちが注目していたのは、
国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本に対してでした。
日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時に、
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長や黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、
と日本の使節団に嘆願書を託したのでした。
自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのです。
その訳というのは、
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたからでした。
これを受けて講和会議に日本は提案しましたが
16カ国中、11カ国の賛成票を得たのですが、
議長であった米国大統領ウィルソンの
「全会一致でない」という詭弁によって退けられてしまったのです。
ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、
米国南部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を知っていたからでした。
これを受けて
アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発したのです。
アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、
日露戦争の時でした。
白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて果敢な戦いを挑んでいる、
と彼らは見たのです。
日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、というヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を事実として否定してみせたのでした。
これがあり
黒人は日本人にたいして尊敬し始めるのですが
それが アメリカで、、、、
の話は
明日へ続く、、、。