EXECUTIVE BLOG
2024.7.28
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
浅草神社の裏手にある 被官稲荷神社を創建した 新門辰二郎の話しでした。
前に 神様を勧請出来る話は書きましたが
こうして江戸の一町人である人までが 勧請できるとは凄いと思いませんか?
そして この人一体誰で 何をした人かと興味が湧くはずです。
日本史をかじった方であればご存知かもしれませんが
新門辰二郎は 後の将軍 慶喜公の用心棒になった方でした。
侠客 すなわち 今でいうところの ヤクザを慶喜は重用したと言う事になります。
これが 現代であれば コンプライアンスとか 反社会勢力との付き合い禁止とかで
大問題になるでしょうが 時は江戸時代 しかも 幕末の混乱時期だったと言う事もあり
可能だったのかも知れません。
2人が出会ったのは慶喜がまだ将軍になる前のことでしたが、
この出会いから度胸の塊の新門辰五郎は幕末の歴史に深く関わっていくことになったのです。
いよいよ幕末の動乱が激しくなってきた1863年に徳川慶喜は京都に上ります。
慶喜はまだ将軍に就く前でしたが、攘夷派と開国派が激しく対立し血で血を洗うテロが繰り返される渦中に飛び込むことになったのです。
ここで新門辰五郎、一肌脱いだのです。
慶喜の身に何かあっては一大事! と、子分200名を連れて京都に駆けつけたと言うのです
なぜ、武士でもない当時の火消しが慶喜の警護を買って出たのか?
これにはわけがありました。
慶喜は御三卿の1つ一橋家の当主でしたが、
御三卿は御三家と違って城持ちの大名ではなく大きな軍事力を持ちません。
供回りの者もわずかです。
つまり、命をかけて守ってくれる家来が少なかったのです。
ですから、度胸一つで命を張って尽くしてくれる新門辰五郎は、
慶喜にとって心強い存在でした。
そして実際、多くの面倒な役目を辰五郎は買って出る事になるのです。
そして1868年、旧幕府軍と新政府軍が戦った鳥羽伏見の戦い直後のこと。
徳川慶喜は大坂城を脱け出しますが、
このとき、
将軍代々のシンボルである馬印が城に残されたままになってしまいました。
これを辰五郎、取りに戻ります。
そして混乱の中、
馬印を無事に江戸城まで届けることに成功し徳川の名誉を守る事になったのです。
ここで この馬印とは 一体何?? と思う方が居るかもしれません
そんな 旗なんてまた作れば良いし 命の方が大事だと思うのではないでしょうか?
命に代えてでも 守らなければならない 馬印とは何か???
御三家ではなく御三卿って 一体なに???
と次から次に興味が湧いて来るかと思いますが
これらの話は 明日へ続く、、、。