EXECUTIVE BLOG
2024.7.29
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 江戸の侠客 新門辰五郎の話でした。
自分の嫁に為に 浅草神社の裏に 神社を建ててしまう位の
人物だったのです。
江戸時代は 名字が許されていたのは武士だけでしたね
それが 町の親分である人物が 名字を持てるようになったのは 何故か??
と思ってしまいます。
更には 慶喜を助けに京都まで子分200人を連れていくのですから
その お金は一体どこからでているのか?? とも思ってしまいます。
辰五郎の主な仕事は 町火消でした。
火消と言う言葉は ドラマでも出て来るので 聞いた事はあるかと思います。
そして 火消には め組とか を組とかいう組織で編成されています。
まず この火消とは何なのか??? からです。
江戸の町では、その267年間の歴史の中で火事が頻発していました。
その回数はなんと49回の大火と大火以外の火事も含めれば1798回を数えるといわれています。
江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」はその都度、
江戸を焼き尽くす勢いだったのです。
特に1657年の明暦の大火は日本史上最大規模で、犠牲者は10万人以上といわれています。
この明暦の大火は 振袖火事とも言われていますね、、
何故 振袖火事か?? の話になると またまた大きく話が逸れてしまうので
それは 又別の機会でと言う事で、、、
で この明暦の大火の時には 江戸城天守閣まで焼け落ちてしまうのです。
令和の今 江戸城天守閣再建運動も行われているようですが
勿論 当時江戸幕府も 天守閣を再建しようと考えていました。
この話も ずっと以前に書いていますが 当時の老中保科正之が
江戸幕府が出来て平和になった今 天守閣再建にお金をかけるべきではなく
飢饉などで苦しんでいる 人たちを救うのが 先だと 言う事で
天守閣再建の話は 却下されました。
この 保科正之は 後に 松平の姓を頂く事になり 初代会津藩主となるのです。
そして その子孫で ある 松平容保が 幕末の京都守護職に就いた人ですね、、。
幕末に 新門辰五郎は 京都に向かっていますので 慶喜だけでなく
松平容保とも会っているのかもしれません、
ご承知の通り 松平容保の京都守護職の下に 新選組が出来ますので
辰五郎親分は 新選組とも共同で働いていたとしてもおかしくは無いのか? と
私は考えますが どうなんでしょう????
どちらも 徳川に忠誠を誓ったひとですから あり得る話とは思うのですが、、、。
で 話を火消に戻さなければなりません、、
江戸に火事が頻発した理由は、大きく分けて2つあるのです。
1つは急激な人口増加でした。
1630年頃の町人の人口で約15万人、1720年頃の町人の人口は約50万人に達していたのです。
更に武士身分の人々が約50万人住んでいて、合わせて約100万人が住んでいた大都市だったのです。
これは世界的に見ても当時としてはトップクラスの超過密都市であり、
町人の住む長屋はすし詰め状態でしたから、
そのため火事が起きれば一気に燃え広がってしまうのです。
しかし当初の江戸の町には、消火組織自体が無かったのです。
この事から 火消と言う組織が出来る事になるのです、
その話は
明日に続く、、、。