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社長&顧問ブログ

2024.8.2

加賀鳶火消

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは

江戸の町では、その267年間の歴史の中で火事が頻発していて、

その回数はなんと49回の大火、大火以外の火事も含めれば1798回を数えたと言う話で、

 

江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」はその都度、

江戸を焼き尽くす勢いであったのです。

 

特に1657年の明暦の大火、通称「振袖火事」は日本史上最大規模で、

犠牲者は10万人以上といわれていますね。

 

本日からはそのような火事に立ち向かう、当時の消防隊・火消しを紹介したいと思います。

 

江戸に火事が頻発した理由は、大きく分けて2つあります。

1つは急激な人口増加で、1630年頃の町人の人口で約15万人、

1720年頃の町人の人口は約50万人に達していたのです。

更に武士身分の人々が約50万人住んでいて、合わせて約100万人が住んでいたのですから驚きです。

 

これは当時の世界的に見てもトップクラスの超過密都市であり、

町人の住む長屋はすし詰め状態でしたから、そのため火事が起きれば一気に燃え広がって

しまったのです。

そしてもう1つの理由は、

関東平野特有の気象に起因してます。

今の東京と同じく、江戸の夏は雨が多いが冬は乾燥して晴天が続きます。

更に春先にかけては北からの空っ風、南からの春一番が吹き、

この条件下で現に江戸で1番火事が多かったのは3月であったのです。

 

しかし当初の江戸の町には、消火組織自体が無かったのです。

 

1629年に江戸の町で最初の消防組織が結成されてましたが、

この組織は10数家の大名家から出された者達により編成された組織でしかなく

火災の際に臨時召集されるだけで、役割分担も何も定められていなかったのです。

 

その為に、1641年に桶町の大火という大火災が起きた時には役に立たなかったそうです。

 

そういう事もあり、これを機に当時の将軍・徳川家光が火消の指揮を執り、

幕府が消防組織の編成に本腰を入れ始めて1643年に

「大名火消」という組織が作られたのでした。

 

これは大名家16家を4つの組に分けて編成した組織で、

火災時には火元に近い大名家が出動するというルールも定められていました。

 

しかし所詮プライドだけが先行する武家さんですよね

火災の現場では消火活動より幕府の要人に挨拶回り等を優先にするために

肝心の消火活動に関しては頼り無かったそうです。

 

そんな中

加賀藩では「加賀鳶」という私設消防団を作ったのです。

 

加賀鳶は色男揃いの上に組織のユニフォームもあり、その柄は雲に雷模様という派手なもので、またその仕事ぶりも優秀であったと言われています。

この頃から 火消に注目が当たるようになるのですが

 

この話は

 

明日は続く、、、。

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