EXECUTIVE BLOG
2024.8.9
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
三丁目の夕日の話から 東京タワー建設への話でした。
昭和33年に東京タワーは完成しますが
戦後わすが13年目の出来事だと思うと 日本人の力は凄いなと改めて感じます。
今日は 東京タワー誕生秘話からそれを完成させた鳶職人の話しへと進む予定です、、、。
終戦から8年を経て「もはや戦後ではない」が流行語となっていた
1953年、昭和28年2月1日、NHKが東京でテレビ放送を開始したのです。
前年末に国産第1号のテレビが作られ、民放も次々に参入して
世はテレビ時代を迎える事になりました。
だがその時、テレビ各局は、電波を流すテレビ塔の設置に頭を悩ませていたのです。
その時ある政治家が サンフランシスコ講和条約で米国を訪れていた時に
「眼前のゴールデンゲートブリッジを縦にしたような電波塔を東京に建てれば、電波問題は解決する」
と閃いたそうなのです。
そんな事もあって 当時「500m鉄塔構想」を発表したそうです。
今のスカイツリーには及びませんが、 あの時代にそれを実現しようと動いた人が居たのに驚きます。
そしてその思いを実現するために政財界やマスコミ業界に協力を求め、
日本電波塔株式会社を設立したのです。
その人は 産経新聞の創業者の前田さんと言う人でした。
彼は設計を当時「塔博士」と呼ばれた内藤多仲早稲田大学名誉教授に依頼したのです。
その依頼と言うのが
「パリのエッフェル塔(312m)よりも高くて美しい、世界一の塔を設計して下さい」
というモノでした。
ここで 何故内藤教授に依頼したかと言いますと、
彼ははもともと、建築業界で非主流派だったのですが、
大正12年の関東大震災で東京が壊滅した際に、自身が設計した建物がことごとく無傷だったと言うのです。
その事があり、以後、設計依頼が殺到して、
名古屋テレビ塔や大阪の通天閣など、約60もの塔を設計していたのです。
そして地震や台風に耐える世界一の塔を建設する為に
現在の日建設計の協力を得て、1万枚を超える設計図を完成させたのです。
パソコンも計算機もない時代、すべて手計算だったと言うのですから
凄い事だと思います。
計算機頼りの現代人からすれば想像できない世界だと思いますね
で 次にこの凄いタワーをどこに建てるかが問題となりました、、、
今の愛宕の近くと最初から決まっていたわけではないのです
最初は、、、
の話は
明日へ続く、、、。