EXECUTIVE BLOG
2024.8.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
東京タワーの話から 尾崎紅葉の話になり
明治文学の話に逸れてしまってます。
早くタワーの話に戻らなければなりませんし その前の
新門辰五郎の話はどうなったか??? にも気になりますが、、、
下書きもせず 起きたはなから思いついた話を書き殴っているので
思いついた話がどうしても先になってしまうので
ご容赦頂きたいと思います。
長く続いた徳川幕府から 黒船来航から 日本は大きく変わって行きますね、、
日本は文明開化により様変わりしましたが、同時に変化を迫られたのが日本語でした。
士農工商、男女、地方地域によってまったく違う言語が飛び交っていた日本でしたが、話し言葉は標準語に統一される方向に向かっていました。
そんな中で 昨日書いた 二葉亭四迷が口語体の小説を書く事になるのですが
その前に 誰が標準語を制定したのか?に興味が湧きませんか??
江戸時代の日本は地方それぞれが藩政の中独自の日本語を確立させていきましたね、
そのため幕末、そのあとの新政権において混乱を招いたそうなのです。
ただ江戸時代、上流武士は地方においても山の手言葉を使っていたと言われていますが
幕末、そして新政権の立ち上げに尽力したのは下級武士が主体でしたので、
薩摩藩の西郷隆盛はじめ 長州藩や土佐藩の人達は 自分たちの言葉で
話していたと思います。
幕末最後の将軍、徳川慶喜の手記に、
「薩摩のなにがしといゆものと話をするも何をいっているのか、
いっこうに解らず是とも否とも返答に困り候」
と言う事が残されています。
この状態では政務の執行が難しいと新政府は考えて国語の統一化を検討する事にしたのです。
まず、200ほどあったと言われるひらがな、カタカナを現行の50音にして
山の手言葉を基準に手を加え標準語としてまとめていったのです。
武家の上流階級の言葉であった山の手言葉で「○○申し候」「○○でござる」
がありますか、
この語尾がですます調になったのは、
申しますがますに変化し、花魁言葉の「でありんす」がですに変化したのです。
両方とも短くて上品ということで標準語に取り入れられたそうです。
さらに
「僕」「君」は「下僕」「君主」から派生し維新志士達の間で使われた流行語が
そのまま標準語になったと言われています。
面白い事に、関東では一般的な母の呼称は「おっかさん」だったようですが、
これは関西の一部で使われた「お母さん」を標準語として取り上げたと言われています。
個別の言葉には諸説ありますが 多分当時の役人が色々検討して統一された日本語はできあがっていったのでしょう。
そして
明治五年、学制制度が成立し全国に小学校が建てられ統一された教科書
「小学読本」ができて全国の子供達に同じ日本語が教えられるようになるのです。
簡単に思いますが かなり苦労をしたのではと推測しますね、、、
で 先の二葉亭四迷はその教育を受けたので 口語体の小説を書くようになったのか??
その真相は???
は
明日に続く、、、。