EXECUTIVE BLOG
2024.8.23
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは ペリーが日本に開国を迫る話から
彼に 親書を託したフィルモア大統領の話しで
幕府は そのプレジデントをどのように訳したら良いのか? と
悩んだ末に
当時 江戸で 庶民から信望も篤かった 棟梁の中の棟梁と言う事で
字は違いますが 大統領と訳したと言う話でした。
後できけば なんてない話ですが 今まで日本に無い西洋文化の言葉を
一つ一つ 日本語に訳すのは 大変な作業だったのではと想像がつきます。
ここで ある疑問が湧くと思います
江戸幕府は長らく鎖国をしていました 海外との接点はオランダだけです。
学者の多くは 蘭学を学び それで オランダ語は覚えたとは思いますが
英語は当時どうなっていたのか??? と思いますね、、。
実は日本で英語教育が始まったのは江戸時代初期の1600年頃とされています。
江戸幕府の外交顧問として訪日したイギリス人、ウィリアム・アダムズが、
幾何学や航海術など西洋由来の知識を日本に授けたのがきっかけだと言われています。
ウィリアムアダムスは、後に日本名は三浦 按針と言う名前を貰います。
この名前は教科書などで見た事があるかと思います。
そして、サムライの称号を得た最初の欧州人だったのですよ、、。
この人 何故日本に来たのか???日本に来るのが目的だったのか?とか
こちらにも興味がどんどん湧きますが
その話になると 又大きく話が逸れてしまうので それは次回以降と言う事で、、
しかし、そのアダムスい以後
いわゆる鎖国政策が採られたことにより、海外から日本に入国することが難しくなります。
外国人が入ってこなければ英語教育も広まりません。
しかしそんな中、幕府が英語教育の大切さを痛感する出来事が起こりました。
それが、かの有名な「フェートン号事件」です。
オランダ船のふりをしたイギリスの船が日本に入国し、長崎の警護体制の甘さが露呈することになった事件です。
このフェートン号が起きたのは1808(文化5)年。つまり 明治維新の約60年前の話
となります。
イギリスの軍艦フェートン号10月14日に なんと卑怯な事に、
オランダ国旗を掲げて長崎に入港し、湾内を探索したうえ、
強奪や乱暴狼藉を働いたのです。
当時、長崎警固の任にあったのは佐賀藩で その時の兵は100名程度しか居ませんでした。
日本側はこれになすすべもなく、同艦を立ち去らせてしまいました。
そしてその夜、長崎奉行・松平康英は切腹自殺してしまうのです。
彼の墓は 今は長崎の鍛冶屋町近くの 大音寺にあります。
かつて 私が住んでいたところから近かったので この方の立派な墓を見た事がありました。
そういう事でこの出来事から江戸幕府は英語の重要性を理解したのです。
外国語教育がしっかりしていれば、イギリスに騙されることもなかったと考えたのです。
更に、ペリーの来航がきっかけで開国して以降、他国との交流の機会が増加しました。
これにより、改めて英語教育をしっかり行きわたらせようと幕府は決心したのです。
では、江戸時代の人々はどのように英語を学んでいたのでしょうか?
その前に ペリーの言葉を訳したのはだれか??
等は
明日へ続く、、