EXECUTIVE BLOG
2024.9.7
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日まで井伊直弼の話が続いています
昨日までは 直弼を守れずに 藩邸に逃げ帰った武士が切腹したと
書きましたが
全員が切腹だったわけではなかったのです。
では 助かったのか????? と思いそうですが そうではありません
切腹だった人は 怪我が軽症の人達でした
逃げて帰ったとは言え ある程度は 浪士達と戦っていたからです
が 無傷の人はと言えば 全く戦わず 呆然と見ていて 挙句藩邸へ逃げて
来たのです。
これは 武士として許されるはずがありません そもそも 井伊の赤備え と言われた
勇猛果敢な武士軍団として 逃げて帰るとはあり得ないのです
それで どうなったか???
なんと 無傷の者たちは 全員切腹ではなく 打ち首として処刑され
お家断絶の処罰が下されたのです
残された家族は 卑怯者の家族として扱われお家断絶ですから その後
一体どうなったのでしょうか???
ここにも 運命のいたずらもあったと思います
江戸城登城の際の 供は 持ち回り制だったとおもいます。
この時にたまたま 自分の番だった武士もいたはずです 切腹前 斬首前に
どのように思っていたのでしょうか??
一方 この時最後まで 果敢に戦った武士も居ました
自分は斬られて一時気を失いましたが 殿の首が持って行かれるのを見て
必死で追いかけ 追いつき 浪士達に斬りかかったのです。
この時 浪士達は3人でしたので なんとか 応戦してその武士を殺すのですが、
自分達も深手を負います、
彼らは それでも 直弼の首を持って 今のパレスホテルあたりの藩邸前まで来て
絶命するのです。
この時 直弼の首は その藩邸前に置かれるのですが
そこの 藩も迷惑ですよね そんな首を自分の門の前に置かれているのですから。
まさか ゴミ箱に捨てるわけにも行きません
そして 騒ぎを知り この首が誰のものか知って 取り扱いに困ったと思います。
ここで 先の 有村を斬った 井伊藩の武士の話に戻りますが
彼の名前は小河原秀之丞で 最後まで井伊直弼を守ろうと奮闘した彦根藩士です。
彼は重傷を負いながらも、主君の首を奪い返そうと最後まで戦い、
最期の言葉として、
「ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった」
と無念の思いを残したとされています。
小河原秀之丞は 戦わず逃げていった 仲間をみてどう思っていたのでしょうか????
こんな事もあり 軽傷 又無傷の藩士たちが 切腹 打ち首に処されたのは仕方なかったのかもしれません、 当時としてはですが、、、。
で 残された首ですが
それから どうなったのか????
直弼自身は 反撃を何故しなかったのか?????
等の話は
明日へと続く、、、。