EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2024.9.14

何故7県なのに九州と

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 井伊直弼ネタから 幕末を迎え

明治時代に入り 文明開化の話になり、

暦も変わったと言う話でした。

 

明治になって 一週間が始まり 日曜日が休日と決められたのでしたね、

 

と言う事から 文明開化の話の続きと思いましたが

 

またまた 話が逸れます、、、。

 

以前 石原都知事時代に 記者から尖閣諸島の話から 中国との関係を問われた時に

石原都知事が シナ シナ と 中国の事を指して言っていたのを聞いた記者が

中国の事をシナと言うには 失礼ではないか、 と問われたのですが、

 

石原都知事は シナをシナと言って何が 悪いのだ! と記者に質問しました

記者は中国と言うべきだとと言っていましたが 世界的 歴史的にみても

シナが正式であり 中国とは 日本の中国地方の事だ と話していました。

 

その時に 当たり前すぎて 中国地方は中国地方なのだと思っていましたが

何故 中国と言う様になったのか??? に興味が湧いた事がありました

 

今朝の天気予報で その中国地方の天気がちょうど目に入ったので

この事を 思い出して

今日の話は 日本のエリアの話へと 急に逸れて行きます、、。

 

私は 九州人ですので 九州が何故九州と言われているかは分かっています

 

しかし この九州も 九州以外のかたからすると 7県しかないのに

何故九州と言うのですかとは よく聞かれてました。

 

今日は まず九州の話からになります。

 

九州が最初に登場する文書は、日本最古の歴史書とされる古事記なのです。

九州島について、古事記では「筑紫島」と記載されていて

また同時期に成立した日本書紀では「筑紫洲」と表記と表記されていました。

 

その中に筑紫国、火国、豊国、熊襲国があったとされています。

 

日本史のおさらいとなりますが

昔の事で 忘れていることが多々ありますね、、。

 

7世紀後期から中国唐朝の律令を取り入れて法体系を整備しそれに基づいた国家制度・統治制度が始まり、この律令制の下で地方行政区分の整備が行われたのでしたね、

 

この行政改革により、日本国内が律令国という基本単位で区分されることとなり、

この基本単位を含めた広域地方行政区画として五畿七道で区分することとなったのです。

 

このとき、九州とその周辺の島々は西海道として区分され、

それまで筑紫国・火国・豊国・日向国・熊襲国とされていた国について九の地域に分けられたのでした。

まず、それまで筑紫・肥・豊と呼ばれていた北九州に存在した国を前・後に分割して

筑紫国を、筑前国・筑後国に、火国を、 肥前国・肥後国とし

豊国を 豊前国・豊後国としたのです

 

また、南九州地域では、702年に薩摩国が成立し、713年に日向国から大隅国が

分立したのです。

それで

熊襲国が 薩摩国・日向国・大隅国となったと言うわけです。

 

以上の結果、九州島内に九ヶ国の行政区分が成立することとなったため、

これらを総称して西海道を九州と呼ぶようになったのです。

 

では、9つあった行政区分がなぜ7つになったのでしょうか??

 

これが 文明開化の話しとも関連するのですが

 

何故7つになったのか?? では 中国は 四国は???

 

等の話は

 

明日へと続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

次の記事へ
前の記事へ