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社長&顧問ブログ

2024.10.7

歌舞伎座

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは 武蔵が主役の 歌舞伎の演題の 勧進帳の話しでした。

 

この歌舞伎 勧進帳の原形は

初代市川團十郎が元禄15年(1702年)2月初演の『星合十二段』に取り入れたのが最初だそうで、

かつては、市川宗家(團十郎家)のお家芸として、

他家の役者が勝手に上演できなかったのです。

しかし、九代目團十郎の没後、宗家に有力な後継者がいなかった事情もあって、

他の役者も弁慶を演じるようになっていけたのです。

以後『勧進帳』は、

弁慶・義経・富樫の三役を歴代の看板役者が生涯に一度は演じるという、

歌舞伎の代表作の一つとなったのです。

 

そもそも この歌舞伎という名称の由来は、「傾く」の古語にあたる「(かぶく)」

の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている。

戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行して、

派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言ったのです。

 

戦国武将で有名な 前田慶次は かぶき者と言われている一人ですね、、。

ただ かれの出自は はっきりしませんが この話は後ほどで、、、

 

なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称であり、

公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていて、また能もその一つなんです。

 

因みに「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得しているのですよ、

ですから 勝手に ○○歌舞伎とかを使ってはいけないと言う事になるのです。

 

この歌舞伎は 1600年ころ出雲大社の巫女だったとも言われる出雲阿国が、

京都で女性の一座とともに舞い始めたことから始まったそうです。

 

それが 江戸時代に発展していき

明治時代は、日本にとって重要な文化的変革をもたらしました。

 

徳川幕府の崩壊、武士階級の廃止、そして日本の西洋への開放などが含まれます。

これらの変化は、歌舞伎にとって良い面と悪い面の両方をもたらしましたと言われています。

一部の人々は伝統的な芸術形式を拒絶しましたが、

歌舞伎は現代の嗜好に適応し、新しいスタイルを取り入れることで人気を取り戻しましたのです、

 

所が、第二次世界大戦中は歌舞伎は日本の戦争努力を支持していたために

占領軍によって一時的に禁止されていた時期があったんで。

 

そうは言いましても 歌舞伎が一般の人に広く普及している文化にはまだまだ

なっていないかもしれませんね

 

歌舞伎役者が テレビや映画に出る事で 知ることが多いのではと思います

 

 

かくいう私も 実は 歌舞伎をやっていた時期があったのです、、、、、

 

本当か???

 

この話は

明日へ続く、、、。

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