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社長&顧問ブログ

2024.10.19

宿駅伝馬制度

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは

東海道五十三次の終点は 京都ではなく大阪だったと言う話で

実は 正式に言うならば 東海道五十七次だと言う事になります。

 

旧東海道は江戸に幕府が出来て、京都まではすぐに開通したみたいで

そのあと、少ししてから大阪まで延ばされたようです。

 

何故一度に大阪まで整備しなかったのか言うと、

大阪に、反幕府勢力の豊臣一族がまだいたからみたいで、

これらを完全に平定したあとに大阪まで開通させたようです。

 

なのに何故、東海道53次は京都三条大橋までの旅と言う事が定番になってしまったの?

か不思議ですね、、

 

あれこれ考えず とにかく 京都までが五十三次で 大阪までが 五十七次と

覚えておけば良いのかな と勝手に納得しています。

 

しかし旧東海道は今で言えば「首都防衛」 当時としては「江戸防衛」を

考えた仕組みだったと思います。

その理由は

川に橋を架けない、厳しい関所を作る、宿場以外の場所で宿泊禁止です

 

すなわちもぐりの旅籠や野宿を禁止していたと言う事になります。

犯罪者や反対勢力の人間たちが隠れる事が出来ないようにしていたと言う事ですね、

一般庶民からすれば泣かせの街道だったと言うわけです。

 

役人が宿場の人と常に情報交換しておく事で 犯罪人の動きなどを

監視できるようにしていたのではと思います。

 

ところで 五十三次の 次とは 何なのかと 興味湧きませんか

普通に 五十三宿場とすれば分かりやすいと思うでしょう、

 

これは、

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝つと、天下統一のために全国の街道整備に着手し、

翌慶長6年に東海道に宿駅伝馬制度を敷いたのに始まります。

 

宿駅伝馬制度とは、街道沿いに宿場を設け、

公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度だったのです。

輸送のために必要な人馬は、宿場が提供するというものです。

輸送の範囲は原則として隣接する宿場までで、

これを越えて運ぶことは禁止されていたのです。

したがって

人足と馬もそこで交替することになり、

隣の宿場に着くと荷物を新しい馬に積み替えることになります。

 

東海道には江戸から京都までの間に53の宿場がありましたから、

江戸から京都まで運ぶ場合、53回の継ぎ替えをすることになります。

そのため俗に「53次」と呼ばれるようになったのですよ

 

色々意味がある事が分かります

 

それで 話は 五十三次と五十七次の話に戻しますが

 

これには 深い意味があったのです

それはなにか??????

 

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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