
EXECUTIVE BLOG
2024.11.23
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨年までは 平安時代が400年も続いた話から
平安時代に優雅な文化が花開いたという話でした。
日本文化の発展に繋がったのが 遣唐使にあったという話になり
その遣唐使は 欽明天皇2年が最初だったという話でした。
この時代には まだ日本には元号がなく 元号と言う制度も 遣唐使によって
中国文化が入る事で根付いたのだと言う事です。
それで 最初の元号は大化の改新でお馴染みの 西暦645年が 大化元年と言う事になります。
日本史を習う時に 「無事故の世の国」大化の改新と覚えたのではないでしょうか?
645年が大化の改新と言う事は 殆どの方は 覚えているかと思いますが
そもそも そんな大げさな改新があったのか? までご存知の方は少ないのではないでしょうか?
改新と言うと改革でもありますね
ここだけ見ますと 何かそれまでの悪い習慣を打破する事が行われたのだとは推測できます。
我々世代の人は大化の改新は「645年」と覚えている人が大半だと思いますが、
これは間違いではないそうなのですが
現在の学校では「大化の改新は646年の出来事」と教えられることがありそうです。
それは何故かと言いますと
まず、大化の改新とは、645年から始まった一連の政治改革のことを指すのですが
この革命の始まりとなったのは、蘇我氏が討たれた「乙巳の変」という事件だということなのです。
革命の要となる政治の基本方針「改新の詔」が表明されたのが646年のため、
この年が大化の改新の年代という説があるというのですよ。
なかなかはっきりしな理由は
「日本書紀」はが大化の改新について記されている唯一の書とされているからで
現在のところ、日本書紀のほかに大化の改新の資料となるものは見つかっていないのです。
となりますと
これに書かれていることを信じるしかありませんし
歴史は勝者が書き換えると言われていますね、
日本書記は日本最古の歴史書とされていますが、
この書記は奈良時代、720年に完成したといわれています。
作者は太安万侶で、大化の改新を断行した中臣鎌足(後の藤原氏)の次男である藤原不比等の部下でもありました。
なので 主人の為の何か作為的な事を付け加えているかもしれませんし
80年近く前の事を書くのに 資料が多く残っていたとか考えらえれませんよね
ほぼ伝聞でしょうが 語る人も 当時では そんな長生きの人もいないでしょうから
正確な事など分かるはずがないと思うのですが、、、
それで 大化の改新に関わるメインキャラクターは、
豪族「蘇我入鹿」皇族「中大兄皇子」朝廷の役人「中臣鎌足」の3人なのは
間違いないようです。
この中で争いがあるのですがその中身は
聖徳太子の死後、政権を独り占めした蘇我氏の力は天皇よりも強くなり、その横暴なふるまいにより周囲から反感を買うようになっていきます。
参考までに、
聖徳太子の名前も知らない人はいないと思いますが
彼は 大化の改新の前で西暦622年に亡くなっていますので
この改革には直接関わってはいない方です。
ちょうどその頃、朝鮮からの貢ぎ物が献上される儀式が執り行われようとしていました。
中大兄皇子と中臣鎌足は、
この朝廷の儀式を「用心深い蘇我入鹿を討つ絶好のチャンス」だと考えたのです。
そしてまさに儀式の最中、中大兄皇子は蘇我入鹿を討ち果たします。
してこれが我々が知っている、645年に起きた「乙巳の変」と言うわけです。
これと同時に、初めての年号とされる「大化」が定められたという事になるのです。
では 何故 蘇我入鹿を討たなければならなかったのか??
とどんどん 深入りしていきますが
この話は
明日に続く、、、。