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社長&顧問ブログ

2025.1.25

ダニエルKイノウエ国際空港

高光産業株式会社

妹尾八郎です

 

昨日までは ホノルル国際空港が 何故 ダニエルイノウエ国際空港に

名称が変更されたのか?? の話に進み

我々日本人としても誇りに思う イノウエの父親の話になりました。

 

日系人の誇りであり米国の英雄を産んで育てた父親は 福岡県の八女市出身で

ハワイに渡って 努力に努力を重ねて イノウエを正しく育てたのでした。

 

しかし ダニエルイノウエは 日系二世として 大変苦労をしました。

 

第二次世界大戦中、日系二世の多くは苦難に直面していたのです。

アメリカの地で生まれ育ちながらも、

彼らは日本の出身であるという理由で偏見や差別を受けることが少なくありませんでした。そんな中、

一人の若者が日系人の名誉を守り、地位を向上させるために立ち上がりました。

それがダニエル・イノウエだったのです。

 

彼は1924年、ハワイのホノルルに生まれました。

彼の家族は昨日書いた様に日本から移民してきた一世で、農業を営む中で家計を支えていました。

しかし、真珠湾攻撃の後、

アメリカ社会における日系人への不信感は一気に高まったのです。

その時、多くの日系人が強制収容所に送られ、

イノウエ自身も民族的アイデンティティとアメリカへの忠誠心との間で

葛藤を抱えることになっていたのです。

しかし

イノウエは18歳のときに米陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に志願したのです。

 

この部隊は“Go for Broke!”(全力を尽くせ)をモットーに掲げ、

アメリカへの忠誠を示すべく勇敢に戦ったことで知られています。

彼らはヨーロッパ戦線で日系人の名誉の為に命を懸けて戦い、

そこで多くの仲間が命をおとしました。

 

イノウエ自身もイタリア戦線での戦闘中に右腕を失うという重傷を負いました。

それでも、彼は最後まで戦い続け、仲間の命を守るために尽力しました。

この功績が認められ、後に名誉勲章を授与されることとなります。

 

戦争が終わった後、イノウエは自らの経験を糧に、

日系人社会の地位向上に取り組むことを決意しました。

彼はハワイ大学で学び、さらにジョージ・ワシントン大学で法律を学びます。

その後、ハワイ州初の下院議員となり、上院議員としても長く活躍する事になるのです

 

政治家としての彼の活動は多岐にわたり、

アメリカ社会における多様性の重要性を訴え続け、日系人がいかにアメリカ社会に貢献してきたかを伝えることで、偏見や差別の根絶に努めたのです。

 

ダニエル・イノウエの生涯は、逆境を乗り越え、

自らの信念を貫き通した日系二世の象徴として語り継がれています。

彼の物語は、私たちに勇気と希望を与え、困難に直面したときにどう立ち向かうべきかを教えてくれます。

 

彼のような存在がいたからこそ、

今日の日系人社会はアメリカで確固たる地位を築くことができたのです。

 

そのような業績が認められ称えられることで 出身地のホノルルで

空港名が ホノルル国際空港から ダニエルKイノウエ国際空港へと変わる事になった

のです。

 

明日は そのダニエルイノウエが ヨーロッパ戦線でどのような戦いをしたのか?

 

その時 彼は、、、、、、

 

の話は

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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