EXECUTIVE BLOG
2025.2.7
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 歴史にもしもがあればと言う事で
徳川幕府が続いていたら 太平洋戦争には突入しなかったのでは?
と言う話でした。
しかし 実際は 明治以後 日本は 日清戦争 日露戦争を経て
最終的に太平洋戦争まで突入してしまったのです。
この背景には 明治維新の際の 薩長の考え違いから来ていたのでは??
との考察を今日はしたいと思います。
明治維新後、薩摩藩と長州藩は天皇の威光を盾に権力を掌握し、
新政府の中枢を独占しました。
彼らは中央集権体制を築き上げ、日本を近代国家へと導いた一方で、
その独善的な政治姿勢が後の軍国主義へとつながっていったと考えられるのです。
維新後の日本では、薩長出身の政治家や軍人が国家運営の中心を担っていました。
彼らは、国家の発展を目指す一方で、
自らの権力を正当化するために「武断的な政策」を推し進める事にしたのです。
その例として
西南戦争では西郷隆盛を中心とする士族の反乱を薩長政府が鎮圧し
西郷や板垣退助らが主張した対外強硬策を一時退けるのですが、
その後、軍拡路線へと移行していきます。
さらに
日清戦争・日露戦争軍事力を背景に対外進出を進め、大陸への影響力を拡大していきました。
これらの流れの中で、軍部の発言力が次第に強まり、
「強い国家を維持するためには軍事力が不可欠」という思想が根付いていったのです。
明治期から昭和初期にかけて、薩長藩閥出身者が内閣や軍部の重要ポストを独占し
山県有朋や桂太郎といった長州系の軍人が政府の方向性を決定づけ、
軍の発言力はますます強まっていきました。
特に、昭和に入ると軍部は政治に直接介入するようになってしまったのです。
それを象徴するように
五・一五事件では海軍青年将校による犬養毅首相暗殺し
二・二六事件では陸軍皇道派のクーデター未遂事件を起こすのです
これらを機に軍が暴走する体制が固まってしまいました。
軍の独走を許したのは、維新以来の「武断的政治」と「天皇を利用した権力掌握」の延長線上にあったと言えるとおもいます。
そして
1941年、日本はついに太平洋戦争に突入してしまいます。
明治以来続いてきた軍国主義の流れが、戦争という最悪の形で爆発してしまったのです。
もし、明治の時点で薩長以外の勢力がもっと政治に関与し、
多様な意見が尊重される体制が築かれていれば、
日本は別の道を歩んでいたかもしれません。
しかし、天皇の権威を利用し、自らの支配を正当化し続けた結果、
最終的に国家は破滅へと突き進んでしまったのです。
歴史は繰り返します。薩長による独裁的な政治が軍部の暴走を許し、
国家を戦争へと導いた事実を私たちは忘れてはなりません。
権力の一極集中は危険であり、政治の多様性とバランスが重要であることを、
今こそ改めて考えるべき時なのかもしれません。
明日は
幕末時における 我が福岡藩はどのように動いたのか??
に
続く、、、
予定