EXECUTIVE BLOG
2025.2.8
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは もし 徳川幕府が続いていたら あの 悲惨な太平洋戦争が起きていたか?
と言う話でした。
しかし
実際は 戊辰戦争で 幕府を破った 薩長が主導を握って行き そこから
軍事力も高まっていったのです。
そして その軍隊をより強固なものしたのが
長州藩出身の 山縣有朋でした。
何故 軍部が独走するようになったのか? そのきっかけっを作った
山縣有朋の話しへ進みます
近代日本の政治・軍事史において、山縣有朋は決定的な役割を果たした人物の一人です。
彼は明治政府の要職を歴任し、軍部の影響力を拡大することに執念を燃やしたのです。
その結果、後の日本を軍部独裁へと導く一因となり
最終的には戦争へ突き進む要因を作り出してしまったのです。
山縣は、西欧の軍制を模倣しながらも、日本独自の軍国体制を築くことに注力した人物です。その中で彼が特に重要視したのが、*統帥権の独立」という概念だったのです。
統帥権とは、軍隊の指揮・命令を行う権限のことで、
本来は天皇が持つものとされていた権利です。
しかし、
山縣はこの統帥権を政府(内閣)から分離させ、
天皇を直接指揮するものとして軍部が独立する仕組みを作り上げたのです。
この狙いは、軍部が政治から干渉されずに権力を握れるようにすることだったのです。
表向きは「天皇の大権を守る」ように見せかけながら、
実際には軍の独裁体制を築くための戦略だったのです。。
山縣の政策が決定的な影響を与えたのが、「統帥権干犯問題」でした。
これは、大正時代から昭和初期にかけての政治の大混乱を生んだ要因の一つと言われています。
それは内閣が軍をコントロールできなくなり、軍部が独自の判断で行動できるようになっってしまったのです。
そして、
軍部は政党政治を軽視し、昭和期には軍事クーデターや独走が頻発するようになりました。
この仕組みが確立された結果、日本は戦争への道を突き進むことになったと言われています。
政府が軍を抑えることができなくなり、最終的には満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へとつながっていく事になりました、、、。
山縣自身が直接戦争を推進したわけではないですが、
彼が敷いた制度の枠組みが日本を誤った方向へ導いたことは間違いないのです。
彼は、軍部の独立性を強めることで、政党政治の腐敗を防ぎ、強い国家を作るつもりだった。しかし、その結果生まれたのは、軍が暴走し、誰も止められない国家になってしまったのです。
特に昭和期には、軍部が「天皇の名のもと」に暴走し、
実質的な独裁権を握るという事態にしてしまいました。
これこそ、山縣が作り出した「軍部優先の天皇制」の行き着く先だったのです。
山縣有朋は、明治期の日本の軍事制度を確立し、一見すると国家を強くしたように見えますが、
しかし、その裏では、軍部の暴走を招くシステムを作り出し、日本を戦争へ導く結果を生んでしまったのです。
統帥権の独立という仕組みは、昭和に入ると完全に濫用され、
最終的に日本は太平洋戦争へと突入する事になってしまいました。
「軍事は国家の要である」という考え方自体は、
当時の国際情勢を考えれば必ずしも間違いではなかったとは思います。
しかし、軍部が独走し、政治とのバランスが崩れた結果、
日本は自ら破滅の道を歩んでしまったとも考えられますね。
山縣有朋の「統帥権の独立」という構想は、日本にとって本当に必要なものだったのか? については
明日に続く、、。