EXECUTIVE BLOG
2025.3.2
高光産業株式会社
妹尾八郎。
昨日までは
早稲田大学と慶應義塾の建学の精神と違いについてでした、
福沢諭吉は 学問のススメを書いた事で有名ですね
その中に 脱亜論と言うのがあります。
彼は何故 脱アジアを目指そうとしたの? が今日の話しです。
福沢諭吉は、ご存知の通り日本の近代化に大きく貢献した思想家で、
『学問のすゝめ』などの著作を通じて、国民の啓発を行いましたね。
その中で彼が唱えた「脱亜論」は、現在でも議論の的となる重要な思想の一つとされています。
福沢諭吉が何故『脱亜論』を説いた背景、その内容、そしてその影響について、、、。
19世紀後半、日本は明治維新を経て近代化の道を歩み始めていました。
一方で、中国や朝鮮は、西洋列強による圧力を受けながらも近代化が遅れ、
伝統的な体制を維持し続けていました。
福沢諭吉は、西洋文明に触れた経験から、日本が西洋諸国と肩を並べるには、
アジア的な価値観や体制から脱却し、
西洋の進んだ制度や考え方を取り入れるべきだと考えていました。
その中で、
特に清国や朝鮮の停滞した体制が日本の発展の妨げになるという危機感を持ち、
『脱亜論』を発表することにしたのです。
『脱亜論』は1885年に発表された論説で、
主な主張は日本はアジアの価値観を捨て、
西洋の文明国と歩むべきであるというものでした。
中国や朝鮮は封建的な体制や儒教的価値観に固執し、近代化の歩みが遅れているため、
日本はその影響を受けるべきではなく、むしろ「脱亜」すべきだと考えたのです。
また、中国・朝鮮は文明開化の努力をしておらず、
日本が明治維新を通じて改革を進めたのに対し、
旧態依然とした体制を続け、国際社会の変化に対応していないと指摘していました。
これらの国々と同じ道を進めば、
日本も後れを取ることになると感じていたのです。
さらに、
日本は近隣のアジア諸国と距離を置き、西洋諸国と協調すべきであると主張しました。
日本は単に地理的にアジアに属しているだけで、
文化的・政治的には西洋の側に立つべきであり、遅れた国家に関与するよりも、
西洋の文明国と共に進むべきだと論じていました。
この『脱亜論』は、当時の日本の近代化政策と合致し、
日本が国際社会で「欧化政策」を推し進める理論的な支柱の一つとなりました。
その後、日本は日清戦争(1894-1895)や日露戦争(1904-1905)を経て、
帝国主義的な政策を進め、アジアでの影響力を拡大していったのです。
一方で、
『脱亜論』は現代において様々な解釈を呼んでいますね。
福沢諭吉の主張は、西洋の進んだ制度を取り入れるという点では合理的でしたが、
アジア諸国を蔑視し、日本の優越性を強調するような側面もあるように思われていました。このため、
近年では福沢の考えを批判的に捉える意見も多くあるのも事実です。
福沢諭吉の『脱亜論』は、日本が近代国家として発展するための戦略的な思想の一つでした。彼の主張は、日本が欧米の近代化を学び、アジア的価値観から距離を置くべきだとするものでした。
それが後の日本の帝国主義的政策につながる要因となったことも否定できないと言う事になってしまうのです。
歴史の文脈の中で『脱亜論』を考えると、
福沢諭吉が単に「アジアを軽視した」とする単純な評価ではなく、
日本がどのようにして近代化を進めるべきかという議論の一環であったことを理解することが重要だとおもいます。
今日の日本が国際社会でどのように立ち振る舞うべきかを考える上で、
『脱亜論』の意義と限界を改めて見直すことが今後の研究課題になると思います。
では 一方の大隈重信には
福沢諭吉の脱亜論的な論文はあるのか????それとも????
は
明日に続く、、、。