
EXECUTIVE BLOG
2025.4.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 東京大学の構内にある 三四郎池の話しでした。
そして 東京大学は 実は旧加賀藩邸跡に出来ているのですが
今日は、何故 この場所が 東京大学なったのか???
の 話に進みます。
現在の東京大学本郷キャンパスがある場所は、
もともと江戸時代には加賀藩前田家の上屋敷があった場所です。
加賀藩は加賀百万石と称される大藩で、その屋敷も非常に広大で、
江戸の中心部に近く交通の便にも優れていました。
この土地が明治時代に入って東京大学の敷地として使われるようになったのは、
単なる偶然ではなく、いくつもの歴史的・政治的・社会的な背景が関係しているのです。
まず、明治時代初期には大きな社会制度の変化がありました。
1868年の明治維新以降、江戸幕府が倒れ、中央集権的な明治政府が成立しました。
その流れの中で、廃藩置県が行われ、大名たちは土地と人民を朝廷に返上しました。
このとき、全国の藩邸も政府に接収され、
多くは官庁や軍の施設、あるいは学校などの公共機関として再利用されたのです。
東京にあった各藩の江戸屋敷も例外ではなく、加賀藩邸跡もそのひとつだったのです。
一方、明治政府は欧米に倣った近代国家の建設を目指し、
その基盤として教育制度の整備に力を入れていました。
特に、高度な知識と技術を持つ人材の育成が急務とされ、
西洋の学問や法制度、医学を取り入れるための拠点として大学の整備が進められました。
東京大学の前身は、いくつかの学問機関にさかのぼります。
たとえば、幕府が運営していた昌平坂学問所、医学所、明治政府が設立した開成学校などです。
これらは東京のあちこちに分散して存在していましたが、
より効率的で体系的な教育・研究を行うためには、一カ所にまとめる必要がありました。
その集約先として選ばれたのが、加賀藩邸跡地だったのです。
この地は、先述のように非常に広く、大学として必要な施設を一通り揃えることができる十分なスペースがありました。
また、東京の中心部に近く、当時の政治や学術の中心地としても機能しやすい立地でした。明治政府にとっても、コストを抑えて効率的に教育機関を整備するうえで、
既存の建物や土地を転用するのは現実的な選択だったと言う事なのです。
さらに、象徴的な意味もありました。
加賀藩は徳川幕府のもとで非常に大きな力を持っていた大名であり、
その上屋敷は旧体制の象徴でもありました。
そこに新しい時代の教育機関を設けることは、旧体制から新体制への転換をはっきりと示す政治的メッセージともなりました。
すなわち、かつて武士の拠点だった場所を、学問と近代化の拠点へと変えることで、
明治政府は「知の時代」への移行を国民に印象づけることができたのです。
また、前田家(加賀藩)自身も、明治新政府に対して協調的な態度をとっていたことも、
土地の転用がスムーズに進んだ理由の一つと考えられています。
ほかの旧藩主と同様に、前田家も華族として新体制の中に位置づけられ、
生き残りを図っていました。
大学などの公共のために邸宅跡が使われることは、社会的にも前向きに受け止められていたと考えられます。
1886年には、
これらの整備が進められた本郷キャンパスが正式に東京帝国大学として定められ、
国家を支える人材を育成する場として本格的に機能しはじめました。
それ以降も、敷地の拡張や建物の整備が行われ、
今日に至るまで日本の最高学府としての役割を果たしているのです。
このように、加賀藩邸跡が東京大学の所在地として選ばれた背景には、
単に土地が空いていたという理由だけでなく、
政治的・地理的・象徴的なさまざまな要素が重なっていたからなのです、、、、、。
所で 東大と言えば 安田講堂と アレですよね???
アレの 話は
明日へ続く、、、。