
EXECUTIVE BLOG
2025.4.12
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 東京大学が 加賀藩邸跡にあると言う話でした
東京大学の構内の安田講堂や三四郎池が 有名ですが。
もっと有名なモノがあります。
今日はその話しに進みます、、、、。
そのモノとは?????
東京大学の象徴的な建築物のひとつである「赤門」の事です。
この赤門は、本郷キャンパスの正門とは別の位置にあり、
訪れる人々に深い歴史の気配を伝えてくれています。
朱塗りの門は華やかでありながらも、どこか厳かで、ただの大学の出入口ではないことを誰しもに感じさせます。
ではなぜ東京大学にこのような「赤門」が存在するのでしょうか??????。
その背景には、江戸時代から続く由緒ある歴史と、幕末・明治を経て受け継がれてきた物語があるのですよ、、、。
昨日も書いた様に、東京大学本郷キャンパスの敷地は、
もともと江戸時代には加賀藩前田家の江戸上屋敷があった場所です。
加賀藩は石高100万石を誇る外様大名としては最大規模の藩であり、
その江戸屋敷もまた幕府に対して一目置かれる存在でした。
そして大名家が将軍家との婚姻関係を結ぶことは、当時の大名家にとって非常に名誉なことだったのですが、
前田家はその名誉を得ることになったのです。
文化元年(1804年)、第11代将軍徳川家斉の娘溶姫が加賀藩第12代藩主・前田斉泰に嫁ぎました。
その際、将軍家の娘を迎えるために建てられたのが、
現在の「赤門」だったのです。
この門が「赤門」と呼ばれるのは、
朱塗りであることに加え、御三家や親藩など、将軍家との特別な婚姻関係を持つ家柄に許された格式ある門構えであったことに由来するのです。
「御守殿門」とも呼ばれ、嫁入りした将軍家の娘のために特別に設けられた門なのです。
赤く塗ることが許されていたのは、幕府との強い縁を持つ家に限られており、
それ自体が一種の“家格”の象徴だったのです。
しかし時代は下り、明治維新が起こると日本の社会構造は大きく変わります。
明治6年(1873年)、旧加賀藩邸跡地に東京大学の前身である「東京開成学校」と「東京医学校」が移設され、後にこれらが合併して「東京大学」が設立されました。
こうして、加賀前田家の壮大な江戸屋敷は、学問の府として新たな命を吹き込まれることになったと言う訳です。
東京大学の本郷キャンパスには、当時の加賀藩邸の遺構がいくつか残されていますが、
その中でも赤門はもっとも象徴的な存在です。
関東大震災や戦災を免れ、現在も当時の姿をそのままに留めています。
1954年には国の重要文化財にも指定され、その保存状態の良さと歴史的価値が改めて認められました。
この赤門は、東京大学の「門」として機能しているというよりは、
むしろその土地が辿ってきた歴史そのものを象徴する記念碑のような存在です。
毎年、観光客や入学式・卒業式の記念撮影をする学生たちにとって、
赤門は単なる建築物ではなく、伝統と誇りの象徴として静かに立ち続けています。
また、東京大学の学生たちにとって「赤門生」という言葉は、単なる学歴的な意味以上に、自らの学びが歴史の重みとともにあるという誇りを感じさせる存在ともいえます。
幕府の栄華、維新の激動、近代国家への転換という日本の大きなうねりのなかで、
赤門は沈黙を保ちながらもすべてを見守ってきたのですね、、、。
このように、東京大学の赤門には、江戸時代の加賀藩の名門ぶり、将軍家との婚姻による格式、そして明治以降の学術の府としての変遷といった日本近代史そのものが刻まれています。
赤門をくぐるということは、単にキャンパスに入るということではなく、
その歴史の流れの一部に足を踏み入れるということなんだと思います。
朱塗りの木材の奥にある物語を感じながら、
一度この門の前に立ってみては如何でしょうか??????。
で 赤門と言えば、、、、、
の話は
明日へ続く、、。