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社長&顧問ブログ

2025.4.15

加賀藩

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 東大の赤門の話しから 長崎の赤寺の赤繋がりの話になりました。

今日は 赤寺がある 長崎の話に進む予定でしたが、

東大にある 赤門を作った 加賀藩の話に 一旦戻ります、、、、、

 

 

かつて日本列島に存在した加賀藩は、

石高100万石を誇る「加賀百万石」として広く知られ、江戸時代を通じて圧倒的な存在感を放っていました。

しかし、この加賀藩はもともと「外様大名」であり、

徳川家とは直接の血縁関係がない立場でありながら、なぜこれほどの巨大な藩となり、

そしてどのように江戸幕府に対して特別な存在感を持ち得たのでしょうか????。

に興味をそそられ 今日はこの話になります、、、、。

 

まず、加賀藩の成立に関わったのは、

戦国時代から豊臣政権下にかけて急成長を遂げた武将・前田利家ですね。

彼は尾張国出身で、織田信長の家臣として若くして頭角を現し、

やがて豊臣秀吉の側近として信頼を得るようになります。

秀吉は、利家の忠誠心と才覚を高く評価し、

北陸の重要な地域である加賀・能登・越中の三国を前田家に任せるようになります。

これが後の加賀藩の土台となったのです。

 

前田家が特に注目されたのは、利家の死後、息子の前田利長が家督を継いだころです。

ちょうどその時期、天下の情勢は大きく揺れ動いていました。

徳川家康が豊臣政権を脅かす存在として台頭し、関ヶ原の戦いへと突入していきます。

このとき、前田家は豊臣方に近い立場であったにもかかわらず、

最終的には家康に敵対することなくうまく立ち回りました。

前田利長は、直接戦闘に加わることなく、家康への臣従の姿勢を見せたため、

処分されることなく、そのまま加賀百万石の地位を保つことができたのです。

 

ここが加賀藩の大きな分かれ道でした。

多くの外様大名は、関ヶ原で徳川に逆らえば減封や改易という厳しい処分を受けましたね。しかし前田家は、

家康にとっても豊臣家にとっても重要な「中立的存在」として機能していたため、

むしろその後も特別な信頼を得ることとなります。

家康としても、巨大な北陸を任せられる有力な外様大名が必要だったため、

前田家を潰すのではなく「抱き込む」方向に舵を切ったと言う訳です。

 

そして江戸時代に入ると、

加賀藩は「加賀・能登・越中」の三国にまたがる大藩として整備され、

その領地は実に100万石に達しました。

これは徳川御三家を除けば最大の石高であり、

名実ともに「筆頭外様」としての地位を確立します。

石高が高いということは、それだけ税収も多く、

軍事力や文化支援も充実するということです。

加賀藩はそれにふさわしい軍備、藩士の教育制度、そして豪華な文化事業を展開していきます。

金沢城下町には絢爛な文化が栄え、「加賀友禅」や「九谷焼」などの伝統工芸も

この時代に育まれたのです。

 

一方で、幕府にとっては、加賀藩の存在は常に警戒の対象でもありました。

100万石という軍事力を背景に、万一反乱でも起こせば幕府が揺らぎかねないからです。

実際に江戸時代を通じて、幕府は加賀藩に対して常に微妙な距離感を保っていました。

例えば、

大名行列の規模や江戸屋敷の管理など、他の藩に比べて厳しい監視体制が敷かれていたとも言われているのです。

 

しかしその一方で、

加賀藩側も「無用な対立は避ける」という非常に賢明な外交戦略をとり続けました。

徳川将軍家に対しては忠誠を示しつつも、

あくまで加賀藩としての独自の自治権を大切にしました。

幕府との関係は、表面上は従順でありながらも、文化や学問の面で自立した豊かな藩政を築いていったのです。

 

加賀藩のこうした慎重かつ賢明な姿勢は、「加賀騒動」のような内部の権力闘争があっても、藩としての安定を崩さずに乗り越えてきたことにも表れています。

また、幕末においても他の雄藩と比べて、

過激な尊王攘夷や倒幕運動には慎重な態度を取り続け、

最後まで自藩の存続と地域の安定を最優先とした姿勢を崩しませんでした。

 

このようにして、加賀藩は単に「大きな藩」であったというだけでなく、

その外交力、内政力、そして文化力において、他の外様大名とは一線を画す存在でした。

幕府に対しては常に一目置かれる存在でありながら、表立って対抗することなく、

絶妙な距離感を保ちつつ独自の発展を遂げていったのです。

 

最後に、加賀藩が雄藩と呼ばれるに至った最大の理由は、単なる石高の多さではなく、

「時代を読む目」と「生き残るための知恵」にありました。

幕府という巨大な中央権力に真っ向から逆らうのではなく、

その中で最も巧みに動いた結果、加賀百万石という地位を築き、

維持することができたのではと思います。

その意味で、加賀藩とは単なる外様大名ではなく、

江戸時代を代表する“戦略的大名家”だったと言えるのではないでしょうか。

 

今でも石川を中心とした人々は何となく思慮深い方が多き気がしますが

そう思うのは私だけでしょうか??????

 

それに比べて我が福岡藩は、、、

あんな事件を起こしたり、、、、、

 

の話に、、、

 

続く、、、、、、、、のか?

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