
EXECUTIVE BLOG
2025.4.19
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 幕末に 時流に乗れなかった福岡藩の話しでした。
今日は その福岡藩の中にも気骨溢れる人物がいたと言う話に進みます。
彼の名は教科書にも出て来ませんし 福岡の人ですらあまり耳にした事がないと
思いますが、
伝聞を基に 今日は彼の話に進みます、、、。
幕末の志士と聞けば、坂本龍馬や西郷隆盛、木戸孝允などがまず思い浮かびますが、
その陰に、もし生きていればそれ以上の活躍をしていたかもしれない逸材がいたのです。
それが
福岡藩士・喜多岡勇平(きたおか ゆうへい)です。
彼の名は、地元の郷土史にひっそりと記されることはあっても、
全国的にはほとんど知られていません。
しかし、
その行動力と先見性は、間違いなく一級の志士に匹敵するものであったと思います。
喜多岡勇平は、福岡藩中堅の家に生まれ、
早くから藩校・修猷館で学問を修めた俊才であった人物でした。
文武両道に秀で、特に儒学と陽明学の素養に加えて、尊王攘夷思想に深く傾倒していたのです。
彼の特徴は、その思想をただ学問として語るだけでなく、
具体的な政治行動に移す実践性にありました。
幕末の混迷のなか、福岡藩内にも倒幕派と佐幕派が激しく対立するなかで、
勇平は薩摩や長州と連携して福岡を討幕の拠点にしようと奔走していたのです。
特筆すべきは、
彼が長州藩の草莽の志士たちと直接接触し、秘密裏に連携を進めていた事実があるのです。この動きは、坂本龍馬が薩長同盟を成し遂げるよりも早く、
しかも福岡藩という有力外様大名を巻き込もうとする大きな構想を含んでいたのでした。
もし、彼の働きかけが成功し、福岡藩が倒幕側として明確に動いていたならば、
日本の幕末の勢力図は根本から塗り替わっていた可能性すらあると考えられます。
しかし、時代はそれを許さなかったのです。
藩内の保守派は、勇平の急進的な改革思想と攘夷論を危険視し、次第に彼を孤立させていき、とりわけ
藩政に深く関わっていた重臣たちからは「藩を乱す扇動者」として警戒されるようになり、彼の動きは密偵によって常に監視されるようになったのでした。
そして、ついに文久3年(1863年)、勇平は藩命により逮捕され、取調べを受ける事になるのですが、
その後まもなく、彼は謎の死を遂げています。
当時、これは公的には「病死」とされていましたが、実際は藩内の保守派による暗殺だったと見られているのです。
このとき、彼と深い交誼を結んでいたのが、かの有名な女流志士・野村望東尼です。
望東尼の庵は、志士たちの密談の場として知られ、長州の高杉晋作や福岡の若手志士たちも出入りしていたそうです。
彼女は後に、勇平の死について「忠臣、天に召されしを痛む」と書き残しています。
そこには、藩という小さな枠にとらわれず、真に国の行く末を思い行動した人物が、
時代に先んじすぎたがゆえに斃れたことへの痛切な思いが込められているのです。
もし、彼が生き延びていればどうなっていたでしょうか?????
坂本龍馬が薩長同盟を仲介する以前に、
喜多岡勇平が福岡藩・長州藩・さらには土佐とも連携し、三藩同盟のような形で幕府包囲網を築いていた可能性が考えられるのです。
特に彼は、軍事や外交だけでなく、教育・経済・制度設計にまで目配りの利いた構想を描いていました。
その先見性は、明治維新後に実現された多くの制度改革と軌を一にするものだったと言えます。
しかし彼は、時代を10年早く生きすぎた。熱意も才覚もあったが、
それを受け止める土壌が福岡藩にはまだ整っていなかったのです。
喜多岡勇平の名は、教科書に載ることはない。
しかし、彼の生き様は、時代を超えて「志とは何か」を私たちに問いかけていると思います。彼の志が生きていれば、明治の日本はまた違う形をしていたかもしれないと思います。
実は 彼が暗殺された野村の自宅が 私の福岡の自宅の近くなので 興味をもっていました。
何分資料が少なくて推測になってしまいますが、
彼は 尊王攘夷から佐幕へ寝返ったと攘夷派から思われて暗殺されているようなのですが
彼は 本当に寝返ったのか?????
の話は、、
明日へ続く、、、。