
EXECUTIVE BLOG
2025.4.20
昨日までは 喜多岡勇平の話しでしたが
今日は 彼が尊王攘夷派から佐幕派へ寝返ったのか??? の話に進みます、、。
喜多岡勇平――その名は教科書には出て来ませんが、、、、
幕末の福岡藩における志士のひとりとして、歴史に静かに刻まれています。
彼は尊皇攘夷を掲げ、福岡藩の中でも早くから政治変革の必要を説いた人物ですが、
やがて「佐幕に転じた」と周囲から非難され、ついには藩内の佐幕派の手によって暗殺されてしまいます。
では、彼は本当に志を変えたのでしょうか?
喜多岡勇平は、一貫して「尊皇公議」――つまり天皇を中心とした国のあり方を尊重し、
政治を開かれた形で再構築すべきだという考えを持っていました。
彼が求めていたのは、
単なる倒幕ではなく、国を立て直すための冷静で現実的な政治改革でした。
しかし、幕末という時代はそれほど寛容でも論理的でもありませんでした。
激化する思想対立と藩内外の駆け引きの中で、
どれほど誠実な政治思想を持っていたとしても、その立ち回り方次第では、
すぐに「敵」として排除されることもあったのです。
とくに文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、
長州藩が京都から排斥された後の福岡藩において、勇平の立場は難しいものでした。
当時、福岡藩は京都の情勢に呼応するかたちで、
藩主黒田長知の命により、京都への使節を派遣します。
その中心的な役割を担ったのが勇平でした。
彼はその使節団の中で、長州藩との交渉・周旋に当たります。
表面上は幕府の意向を踏まえた動きだったため、
結果的に「幕府側についた」と解釈されることになってしまったと思われたのです。
しかし、勇平の本心は違いました。
彼は、長州と敵対することを望んではおらず、
むしろ対話と交渉を通じて平和的に事態を収束させようと奔走していたのです。
それはまさに、政治的調整力を求められる時代の中での、誠実で慎重な姿勢でした。
けれども、
その行動は、藩内の急進的な尊皇攘夷派からは「裏切り」と見なされてしまいます。
とくに、長州と深い関係にあった平野国臣らが粛清されると、
藩内には強い不信と猜疑心が広がり、
「誰が味方で誰が敵か」を色眼鏡で判断する空気が高まっていきました。
そんな中で、勇平のように藩の命に忠実に従いながら、現実路線を歩もうとする人物は、
もっとも危うい立場に置かれてしまったのです。
藩主に忠義を尽くしながらも、
藩全体が揺れる中で、その忠誠心がかえって「佐幕」と見なされてしまったのです。
つまり彼は、「変わった」のではなく、「変わったと思われた」のです。
それも、
極端な思想が主導する時代の中で、
誤解と政治的な操作によって“変節者”に仕立て上げられてしまったのだと思われます。
さらに重要なのは、
喜多岡勇平の死が、いわば「密殺」に近い形でなされた点です。
彼は自宅で就寝中に藩内の佐幕派藩士に襲われ、
その遺体は野村望東尼の庵近くの井戸のそばで発見されました。
望東尼は、勇平と深い親交を持っており、
彼の死に際しては涙ながらにその非業を悼んでいます。
彼女の証言や態度からは、勇平を「裏切り者」などと見る認識は一切見受けられません。
むしろ彼の死は、藩内抗争の果てに生まれた犠牲として、後世に伝えられていったのです。
このように、喜多岡勇平の「変節」は、事実というよりも、
時代と藩内の空気によって作られた“レッテル”に過ぎませんでした。
彼の柔軟で冷静な行動は、
今でこそ「政治的バランス感覚」として評価されるかもしれませんが、
あの激動の幕末では「曖昧な態度」「中途半端な男」と誤解され、
命を奪われる結果となったのだと推察されます。
もし彼が生き延びていれば、
薩長同盟をまとめた坂本龍馬のような存在にすらなり得たかもしれないのです。
それだけの調整力と先見性を持っていたことは、多くの史料が物語っています。
喜多岡勇平は、「変わった」のではなく、「変わらぬ志のままに殺された」志士だと思います彼の無念と誠実な政治思想を、今こそもう一度見つめ直すことが、
幕末という時代の真実に迫る第一歩なのかもしれないとおもいます
明日は 彼と親交のあった野村望東尼とは????
尼さんなのに 何故勤王の志士として知られているのか???
福岡以外の方は 名前すら聞いた事がないかもしれませんが
その話しに
続く、、、。