
EXECUTIVE BLOG
2025.4.22
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 維新で活躍した女性の 野村望東尼の話しでした。
今日は 長崎で幕末から活躍したあの女性の話に進む予定でしたが、
維新で活躍した女性は 野村望東尼だけではないと言う話に進みます、、、。
幕末から明治維新という激動の時代、
日本の歴史を動かしたのは決して男性たちだけではありませんでした。
表舞台に立つことは少なかったものの、その陰で時代を支え、あるいは行動を共にした女性たちが確かに存在していたのです。
福岡藩の女流志士・野村望東尼はその代表的存在ですが、
彼女のほかにも多くの女性たちがそれぞれの場所で維新を支えていたのです。
まず、長州藩出身の高杉晋作の妻であった「高杉雅子」は、
表立った活動は記録に乏しいですが、夫の志を支え続けた女性として知られます。
晋作が命を縮めながらも維新の先駆けとなる行動を取ることができた背景には、
雅子の変わらぬ支えがあったのです。
彼女は夫の死後もその遺志を尊重し、晋作の思想を次世代に伝える役割を果たしたと言われています。
もう一人、京都で活動した「中岡慎太郎の妻・お美代」もまた、
陰ながら夫の志士活動を支えた女性です。
中岡は坂本龍馬と並び称される維新の立役者の一人ですが、
その命がけの行動の背後には、日々の生活を支えながら密かに情報を伝え、
時には同志たちの避難先を用意するなどの支援を行っていたお美代の存在がありました。
彼女自身の名は歴史に大きく残ることはありませんが、
その功績は大きなものであったと評価されています。
また、もう一人注目すべきは「新島八重」です。
彼女は幕末から明治にかけて活躍し、「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた女性です。
会津藩士の娘として生まれた八重は、戊辰戦争の際には男装し銃を手に取り、
会津若松城での籠城戦に参戦しました。女性ながら銃の扱いに長けており、
最前線で戦うその姿は多くの人々に驚きと尊敬をもって迎えられました。
明治以降は教育者として、また新島襄の妻としてキリスト教精神に基づく教育の発展にも尽くしている事は有名ですね、、。
他にも、京都・薩摩藩邸に出入りしていた「幾松」という女性は、
のちに桂小五郎(後の木戸孝允)の妻となる人物です。
彼女は芸妓という立場でありながら、桂の逃亡を助け、
変装の手助けや潜伏先の提供など、まさに命がけで維新運動に寄り添った存在でした。
桂が長く幕府から追われる中でも彼女は離れることなく支え続け、
後に正式に夫婦となります。
表舞台に立つことのなかった幾松ですが、歴史の陰での功績は今も語り継がれていますね。
野村望東尼のように、自ら出家して「世を捨てた」かに見えながらも、
実際には多くの志士たちと交流を持ち、時には匿い、時には思想を鼓舞した女性も珍しくはありませんでした。
例えば、土佐藩出身で、坂本龍馬の姉として知られる「坂本乙女」も、
弟に強い影響を与えた存在でした。乙女は剣術にも秀で、
龍馬に学問や武術の基礎を教えたとされ、彼の人格形成に大きな影響を与えた人物として記憶されています。
このように幕末維新という転換期において、女性たちは単に家庭を守る存在ではなく、
ときには戦い、支え、鼓舞し、歴史の一翼を担っていました。
彼女たちの名は教科書に大きく載ることは少ないかもしれませんが、
その行動と志は、確かに時代を動かす力となったのです。
現代に生きる私たちは、野村望東尼をはじめとするこうした女性たちの姿に、
静かな勇気と確固たる信念を感じ取ることができます。
社会の表舞台で語られることの少なかった女性たちの歴史に、
今一度光を当てることは、過去を知り、未来を考える上でも大切なことなのかもしれません。
明日は 何故新島はジャンヌダルクと言われたのか?
そもそも ジャンヌダルクは何をしたのか????
の話に
続く、、。