
EXECUTIVE BLOG
2025.4.29
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは パリが何故芸術の都になったか? の話しでした。
今日はそのパリの中でも 良く耳にする モンマルトルの話に進みます、、。
パリの北、セーヌ川右岸に位置する小高い丘、それが「モンマルトル」です。
今日では「芸術家たちの聖地」として名高いモンマルトルですが、
その歴史をたどると、単なる美しい観光地にとどまらない、
時代を映す深い背景が浮かび上がります。
モンマルトルの名は「殉教者の丘」に由来すると言われています。
3世紀ごろ、パリ初の司教であった聖ディオニシウスがこの丘で処刑されたという伝承に基づき、その名がついたと伝えられています。
この伝承を背景に、モンマルトルは中世から宗教的な聖地と見なされ、
やがて多くの修道院が建てられました。
今日、丘の頂にそびえる白亜のサクレ・クール聖堂も、
そうしたモンマルトルの「聖なる丘」としての歴史を象徴する建造物なのです。
長らくパリの中心部とは距離を置いたこの地は、17世紀から19世紀にかけて、
農村地帯としてのんびりとした時間が流れていました。
石灰岩の採掘場が点在し、広大なブドウ畑や風車小屋も見られたため、
「パリ郊外の田園」とも言える光景が広がっていたのです。
この頃のモンマルトルは、まだ「芸術」とは縁遠い素朴な土地だったのです。
転機が訪れるのは19世紀後半、フランス第二帝政の崩壊後のことでした。
ナポレオン3世の命によりパリ市街地の大改造が進められ、
多くの下層市民や貧しい芸術家たちが中心部から締め出される形で、
パリ北部のモンマルトルに流れ込んできたのです。
当時、モンマルトルはパリ市の管轄外にあり、税金や規制が緩やかだったため、
安く自由に暮らせる地として人気を集めました。
こうして、モンマルトルは急速に多様な人々が集う「自由な空間」となっていきます。
19世紀末から20世紀初頭にかけては、
「ベル・エポック」と呼ばれる文化の爛熟期を迎えます。
この頃、モンマルトルには新しい芸術運動を求める若き画家たちが次々と集まりました。
ピカソ、モディリアーニ、ユトリロ、ロートレック、そしてゴッホです。
今では誰もが知るこれらの巨匠たちも、当時は無名で、貧しい生活を送りながら己の表現を追求していたのです。
なかでも特筆すべきは、
キャバレー「ル・シャ・ノワール」や「ムーラン・ルージュ」の存在です。
芸術家たちが夜な夜な集まり、絵画、詩、音楽、演劇が交錯するこの空間は、
単なる娯楽の場にとどまらず、モンマルトル文化の象徴となりました。
パリ中心部では受け入れられない過激な表現や新しい思想も、
ここモンマルトルでは自由に花開くことができたのです。
ボヘミアン精神が根付いたこの風土が、
世界に誇る「芸術の都パリ」のイメージを形作る原動力となりました。
しかし、モンマルトルの輝きは永遠ではありませんでした。
20世紀に入り、
都市開発が進み、モンパルナス地区やシャンゼリゼ周辺に文化の中心が移るにつれ、
かつてのモンマルトルの熱気は次第に失われていきます。
それでも、モンマルトルには今なお、芸術家たちの自由な息遣いが残っています。
広場では画家たちが観光客相手に似顔絵を描き、
路地裏には小さなギャラリーやカフェがひっそりと佇み、
かつてのボヘミアンたちの魂を静かに伝えているのです。
そして何より、モンマルトルの歴史を象徴する存在として、
サクレ・クール聖堂が現在も丘の頂からパリを見下ろしています。
この聖堂は、1870年の普仏戦争とパリ・コミューンという苦難の時代を経て、
国民の和解と祈りの象徴として建設されました。
芸術家たちの自由な精神と、祈りの地としてのモンマルトルですが、
この二つが織りなす複雑で豊かな歴史こそが、
モンマルトルを単なる「観光地」ではない、特別な場所にしていると言えるのではと思います。
過去の栄光に甘んじることなく、それでいて歴史を深く抱きしめるモンマルトル。
そこには、時代の荒波に抗いながらも、なお自由と創造を求め続ける人々の姿が、
今も確かに息づいている気がしますね、、、
明日は
では誰が最初に芸術の町にしたのか???
に続く、、。