
EXECUTIVE BLOG
2025.5.1
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 芸術の都パリの中でも 芸術家が集まるモンマルトルの話しでした。
今日は そもそもモンマルトルが何故殉教の地と言われるのか??
の話に進みます、、、。
パリのモンマルトル丘の上に白く輝くのがサクレ・クール寺院です。
観光地として知られるこの美しい聖堂は、実は単なる建築物以上の深い歴史と意味を背負っています。
なぜここが「殉教の地」と呼ばれているのか???。
その背景には、パリの起源に関わる古代の伝説、キリスト教の布教、
そしてフランス近代史の波乱が織り交ざっているのです。
まず、モンマルトルという地名自体に秘密があるのです。
フランス語で「モン(Mont)」は「山」、「マルトル(Martre)」は「殉教者」を意味します。つまり、モンマルトルは直訳すれば「殉教者の丘」なのです。
この名前の由来は、3世紀頃にさかのぼります。
当時、ローマ帝国の支配下にあったガリア(現在のフランス地方)で、
初めてキリスト教を伝えたとされる聖人、サン・ドニ(聖デニス)が
この丘で殉教したと伝えられています。
聖デニスはパリ司教として、異教の世界にキリスト教を広めるために活動していました。
しかし、ローマ帝国の迫害に遭い、仲間のルスティクス、エレウテリウスと共に捕らえられ、モンマルトルの丘で斬首されたと言われています。
さらに伝説では、
デニスは首を切られた後、自分の首を持って歩き、数キロ先まで行った後に倒れたとされ、その地に現在のサン・ドニ大聖堂が建てられました。
この「首を持って歩く聖人」の奇跡は、
中世以来フランスで広く知られ、信仰を集めることになったのです。
つまり、モンマルトルはフランスキリスト教の原点ともいえる「殉教の地」だったのです。
この聖なるイメージに加え、
モンマルトルは中世以降も修道院や礼拝堂のある宗教的な土地として尊重され続けました。丘の上からパリ市内を見渡せるその立地もあって、
祈りと瞑想の場所として愛されてきたのです。
しかし、時代は流れ、19世紀後半になると、
モンマルトルの丘は再びフランス人にとって特別な意味を持つことになります。
普仏戦争でフランスはプロイセンに敗北し、続くパリ・コミューンでは、
モンマルトルが革命勢力の中心地となりました。
コミューン政府は、社会主義的な理念を掲げ、既存の国家権力と激しく対立しました。
この運動は軍によって鎮圧され、数万もの市民が殺される悲劇となったのです。
特にモンマルトル一帯では激しい戦闘が行われ、多くの血が流れたそうです。
こうしてモンマルトルは、古代の殉教に加え、
近代における政治的「殉教」の地としての側面も持つようになった場所なのです。
このような流血と国の苦難に対して、カトリック教会と保守派市民たちは
「フランスの罪を償い、国を救うために神に祈る場を作ろう」と考えました。
その象徴がサクレ・クール寺院なのです。
「サクレ・クール=Sacré-Cœur」とは「聖なる心」、
つまりイエス・キリストの慈しみの心を意味してると言われています。
この寺院の建設は、フランスの敗北と内乱という国難を、信仰によって贖罪し、
国民の精神を立て直すために捧げられたのです。
建設の発願は1873年、パリ・コミューンの直後になされ、
1875年に着工しましたが、資金難や設計変更などにより工事は長引き、
完成したのは1914年、第一次世界大戦の直前でした。
そして正式な献堂式は、戦後の1919年に行われました。
白いドームがパリの空に輝くサクレ・クール寺院は、
こうして古代の殉教と近代の悲劇、その両方の記憶をたたえながら、建てられたのです。
行かれた方はご存知かと思いますが、
この寺院の中に入ると、巨大なキリスト像が天井に描かれていますね。
その顔は厳しさと慈しみをたたえ、まるでパリ全体を見守るかのようです。
また、寺院の内部では今も「永遠の礼拝」が続けられており、
昼夜を問わず誰かが祈りを捧げています。
これは、建設当初から続く伝統であり、フランス国家と世界の平和を願う祈りなのです。
観光地であり芸術家の集う場所としてにぎわうモンマルトルですが、
その背後には数百年にわたる殉教と祈り、苦難と希望の物語が積み重なっているのです。
サクレ・クール寺院を訪れる際には、単に美しい景観を楽しむだけでなく、
こうした歴史的背景にも思いを馳せてみると、また違った感動を覚えるとおもいます。
で
明日は この地で活躍し その後大成した芸術家の中にも
苦労をした方が多くいます
その象徴的な画家があの人ですよね、、、
その話しは????
明日へ続く、、、。