
EXECUTIVE BLOG
2025.5.31
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 般若心経の話しでした、、、。
今日は お経を何故葬儀の時唱えるのか??? の話に、、、。
本来、仏教というのは「生きている間に修行をして悟りを目指す教え」です。
釈迦は、生きている私たちがどう苦しみと向き合い、
どのようにして心の平安を得るかを教えました。
仏教の基本には、苦しみの原因とそこから抜け出す方法を説いた四諦や、
正しい考え方・行動・生活を目指す八正道、
戒律を守り、心を静め、智慧を得るという戒・定・慧などの教えがあります。
これらはすべて、
生きているうちに自分の心の中にある欲や怒り、迷いといった煩悩を見つめ、
それを少しずつ手放していくための道しるべです。
つまり、仏教は「死んでから救われる」ためのものではなく、
「生きている間に自分自身を変えていく」ための教えなのです。
しかし現代の日本では、多くの人が日常的に仏道修行をしているわけではありません。
むしろ普段は宗教にあまり関心を持たず、
せいぜいお盆や正月にお参りをする程度という人が多いのが実情です。
ところが、誰かが亡くなると、
お寺からお坊さんが来て読経をし、戒名を授け、葬儀や通夜が行われます。
遺族はそれにお布施を払い、「この人が無事に極楽に行けますように」と祈るわけです。
つまり、生きているうちは仏教にあまり関わらなかった人が、
亡くなった途端にお経を唱えてもらって仏の道を歩む、いわば“にわか修行”のようなことが行われているのです。
こうした現象に対して、仏教者の間では古くから議論や批判がありました。
「読経だけで成仏できるのか」「葬儀にお金をかけても救われるとは限らない」
「仏教は本来“死者のための宗教”ではないのに、そう誤解されている」など、
問題意識を持つ人は少なくありません。
ではなぜ、
こうした死後にお坊さんがお経をあげるような文化が日本に根付いたのでしょうか??。
それには、「他力本願」によって死後の救いを説いた浄土宗や浄土真宗の存在が大きく関係していると言われています。
浄土宗を開いた法然は、「自力で修行をして悟りを開くのは一般の人には難しい」として、阿弥陀仏の救いにすがる教えを広めました。
南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、
誰でも極楽浄土に生まれ変わることができるという信仰です。
さらにその弟子である親鸞は、人間の煩悩は完全には消せないとした上で、
「だからこそ、阿弥陀仏の慈悲にすがることが大切だ」と説きました。
彼は「念仏は修行ではなく、阿弥陀様への感謝の心を表すものである」と教えました。
このように、仏教の中でも特に浄土系の宗派では、生前の厳しい修行を重視するよりも、
阿弥陀仏の慈悲に身を委ねるという信仰が重視されました。
これが庶民の間に受け入れられ、
「お坊さんにお経をあげてもらえば安心」「念仏を唱えれば極楽に行ける」
という考え方が広まっていったのです。
結果として、日本では「仏教=死者のための儀式」と受け取られるようになり、
お葬式の時だけお寺との関係が深まるという構図ができあがりました。
もちろん、すべての僧侶がこれをよしとしているわけではありません。
むしろ、「生きているうちにこそ仏道を学び、実践するべきだ」という声も多く聞かれます。
どれだけお経をあげても、故人の生き様がそのまま仏の世界へ通じるわけではありません。読経はあくまでも遺族のための慰めであり、故人の功徳を思い出す儀式です。
本当の意味で仏教にふれるというのは、日々の生活の中で少しでも欲を減らし、
人を思いやり、感謝の気持ちを忘れずに暮らすことです。
最近では「終活」や「生前の学び」といった言葉が一般的になり、
元気なうちにお寺で法話を聞いたり、写経や座禅を体験したりする人も増えています。
また、自分の死をきっかけに家族に仏教の教えを伝えようとする人もいます。
こうした動きは、
かつての「葬式仏教」的なあり方から、「生きる仏教」への回帰とも言えるでしょう。
死後のためではなく、今をどう生きるか、どうすれば心穏やかに日々を過ごせるか。
仏教は本来そうした問いに向き合うための教えです。
生きているうちにこそ仏道を学び、心の在り方を整えることが、
真の意味での仏教との付き合い方なのです。
葬儀はその一つの節目ではあっても、仏教のすべてではありません。
これからは、亡くなった後だけでなく、生きている今こそ仏教にふれて、
自分の心のあり方を見つめ直す機会としていくことが、
よりよい生と死のあり方につながっていくのではないかと思います。
とは言え 日本には仏教の中に色々な宗派がありますね、、、
その 宗派は何故???
の話は
明日に続く、、、。