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2025.6.19
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 朝廷として長く続いたのは北朝でしたが、
明治維新後、南朝が正当の朝廷と認定された話でした。
今日は 南朝側の英雄の 楠木正成の話になります、、、、。
楠木正成という人が「英雄」と呼ばれているのは、
ただ強かったからでも、たくさん勝ったからでもありません。
それよりも「信じたことを貫いた姿」や「最後まであきらめずに人のためにつくした生き方」が、多くの人の心に深く残ったからです。
楠木正成は、今から700年ほど前の鎌倉時代の終わりから、
南北朝というふたつの天皇がいた時代にかけて活躍した武将です。
当時、後醍醐天皇という天皇が、自分で国を治めようと考え、
武士の力をおさえて天皇中心の政治を始めようとしました。
これを「建武の新政」といいます。
このとき、楠木正成は、後醍醐天皇の考えに共感して、力を貸すことになります。
でも、現実はとても厳しく、足利尊氏という有力な武士が天皇のやり方に反対し、
別の天皇を立ててしまいます。
これが「南朝」と「北朝」というふたつの天皇が並び立つ時代の始まりです。
楠木正成は、ずっと南朝、つまり後醍醐天皇の側につき、その命令に従って戦い続けました。
有名な戦いに「千早城の戦い」があります。
このとき、楠木正成はわずかな兵しか持っていませんでしたが、
山の地形をうまく使った作戦や、夜の奇襲などを駆使して、
何倍もの敵軍を相手に見事に戦いました。
負けそうな戦でも、あきらめずに知恵をしぼって戦う姿は、多くの人々に勇気を与えたのです。
しかし、正成が「英雄」として特別な存在になったのは、
その最後の戦いによるところが大きいのです。
足利尊氏が再び大軍を率いて京の都に攻めてくると、後醍醐天皇は楠木正成に出陣を命じます。
正成は、この戦いには勝ち目がないとわかっていました。
それでも、「天皇のために命を捧げるのが自分の役目」として、その命令に従いました。
そして、弟や息子と一緒に戦い、最後は自ら命を絶って果ててしまったのです。
その時の言葉に「七生報国」というものがあります。
これは
「たとえ7回生まれ変わっても、国のために尽くしたい」
という意味で、楠木正成の強い思いをよく表しています。
どんなに不利でも、どんなに苦しくても、信じた道をまっすぐに進んでいった姿は、
今も多くの人の心を動かしているのです。
江戸時代の終わりになると、
楠木正成の生き方は「理想の武士」「忠義の人」として見直されるようになります。
特に、明治維新を目指して活動した志士たちは、
楠木正成のように「自分の命よりも国や天皇のために尽くす姿」を手本としました。
西郷隆盛や吉田松陰なども、楠木正成を尊敬していたと言われています。
そうした流れの中で、明治時代になると新しい日本の国づくりが始まりました。
明治政府は、天皇を中心にした国家をつくろうとしていました。
そのとき、楠木正成の忠義の精神が「国の手本」として取り上げられるようになります。
そして、「こんなに立派な人が昔いたのだ」と多くの人に知ってもらうため、
皇居のすぐ近くに正成の銅像が建てられることになったのです。
この銅像は、
馬に乗り、鎧をまとった楠木正成が、遠くをじっと見つめる姿で造られています。
まるで「これからの国を見守っているかのようだ」とも言われます。
この像が建っている場所は、国の中心である皇居のそばで、とても目立つところです。
それは、「国を思い、天皇に尽くした人」として、特別に大切にされた証でもあります。
戦後、日本は新しい時代に入り、価値観も大きく変わりました。
でも、楠木正成の像は今も皇居の前に残り続けています。
なぜなら、
彼が教えてくれた「信じるもののために尽くす心」や「人のために生きる姿勢」は、
時代が変わっても色あせないからです。
私たちは、歴史を通して多くのことを学ぶことができます。
楠木正成の生き方は、ただ昔の武将の話ではなく、
「人としてどう生きるか」「誰かのためにできることは何か」
を考えさせてくれる、大切な教えになっているのです。
皇居前の銅像は、その思いを今も静かに伝え続けていると感じます。
この銅像の所在地は
東京都千代田区皇居外苑1‑1。東京メトロ千代田線「二重橋前駅」より徒歩5分程度の、
二重橋を正面に見据えた南東側の広場にあります。
お近くを通ったさいは 是非ご覧ください、、、。
明日は 彼の戦いについての話に続く、、、、。